父から娘への手紙 8通目

 さて仕事について書いてみよう。
 12月に帰国したら就職活動をすると言っていたからね。私は高校のときに新聞配達をしたことがありました。原付バイクで配達でしたけどね。それはアメリカに行くための留学費用を貯めるためでした。また学校のつまらない行事をサボって日雇いの仕事(建設関係)をしたこともあります。高校3年生の夏休みは毎日でした。
 いざ留学を断念して京都に行くことになりますが、その前の一ヶ月は小学館の「原色日本の美術」などという本を売る仕事をしたこともあります。まあ、全く売れませんでしたけどね。これも良い経験でしたよ。

 京都では、前に書いたとおりで錦の市場でバイトして、その後エスペランサに入りましたが、ここで販売の面白さを知ったのです。
 そして「モノを売る力や能力は学力ではない。販売に学歴は関係ない」ということも知りました。それゆえか頑張りましたね。
 百貨店の催事を担当するようになってからは、仕入れで東京に出張させてもらったこともありました。売る力がある人間を会社は放置しなかったですね。こうしてだんだん私の発言力も強くなっていったのです。

 香港には派遣されたものの、合わず3ヶ月でギブアップしましたが、これは若すぎたんだと今では理解しています。ただ、レポートを書いたことで、社長の私を見る目が変わり、抜擢されましたから、何か書いておいて良かったと思います。毎日レポートを書いていましたからね、この文章力は今のブログにも生かされているわけです。
 神戸ではかなり売り上げ貢献したと思います。そして個人販売実績でも全店でトップ10位には入ったいたんじゃないですかね。

 次の札幌パルコなんて再建人として派遣されたようなものでした。売り上げをかなり落としていましたからね。札幌は面白い街で、11月の半ばに雪が降るのです、そうすると売り上げが2倍になります。毎年そうみたいですけどね。靴の底に滑り止めを張って履きます。
 札幌に目処が立って、東京本部に迎えられましたが、仕事の内容があいまいで、今度は六本木の店が不振、また派遣されましたが、これも再建し、その特殊なハイヒール専門の事業部まで作ってもらいました。日本の最高級の靴でしたね。綺麗なカーフのパンプスは最高でした。靴のデザインに挑戦したのもこの時期でした。約2年ほど、パンプスのデザインをしたこともあります。
 そのため2-3年は半年ごとに欧州視察に出かけていました。ロンドンに入り、パリに行きミラノに入り、2週間ほど滞在しましたかね。
 
 いつも同じ場所を見るのでポイントが分かってきます。そしてトレンドの傾向なんかも分かるものです。

 あのまま会社にいれば社長の補佐にはなっていたと思いますよ。ただ目指す方向性が違ったので辞める決意をしたのです。10年間お世話になり、特に創業者の社長には好かれていたと思います。特別に給料を上げてくれた時期もありましたからね。
 当時の常務は「また商売人が1人消えた」と言っていたそうです。これは嬉しい褒め言葉でしたかね。

 その後パチンコ屋の社長の秘書の話があって、入ったもののハワイに行ったり仕事らしい仕事はなく、あっさり辞めています。
 そこから自立の道を歩むのですが、コンビニを始めて3年でグリーンカード当たって1400万円を溝に捨てましたが、結果オーライだったと思っています。
 あのまま、コンビニを続けていても大した人間には成らなかったでしょう。まあ、元々がアメリカに行きたいという夢があって、それが叶ったのですからね、文句は言わない。

 寿司がトレンドになるという読みは当たりましたね。そして寿司を覚えて良かったと思っています。
SOTOという店には通算で4年いましたが、私は巻物専門でした。刺身切ったこともなし、握りを作ったこともありませんでした。卵は焼いていましたけどね。お客さんのために熱々の卵を焼いたこともありました。

 ちょうどその頃ですかね、アジア料理がトレンドになってきてBuckhead Life Groupでもアジアンテイストのある店を出すことが決定したわけで、寿司をやる人間を探していた。
 私の知り合いにデボラというのがいて、その友達のジェニファーがNavaでバイトをしていたのです。当時のNavaはKevinがシェフをしていて、彼が実質次の店Bluepointeの準備をしていたんですね。それで紹介されてPanoに会って、実技面接も受け、それに合格して寿司シェフとして採用が決まったのです。

 ただ面白いことに私は魚を下ろしたことがなかった。これがばれたら大変でしたよ。幸いにも実技は料理だったのでね。私は高校のときに連れがあべの辻に行っていて、彼が卒業作品にしたものをコピーしました。
 それは風船に水を入れてそれを冷凍する。そして5-6時間で出して風船を割ると、綺麗な氷のボウルができるのです。それを器にしたり、またドームにして料理を作れるわけです。それが受けただけの話だと判断しています。 また、SOTOという店にいたという実績ですかね。巻物しか巻いていなくてもその店にいただけで信用してくれましたね。

 幸いにもBluepoineの開店が2-3ヶ月遅れたので、Atlanta Fish Marketにしばらく居ました。ここでメキシカンと一緒に魚を下ろすことによって、魚の下ろし方をマスターしたのです。まあ、忍者はったり君ですよね。でもこういうのが大事なんです。
 何でも挑戦しないとダメ、できないと思ったらダメですからね。SOTOに居たときはバイトでしたからね最後の時給は14ドルだったと思いますよ。それがBluepointeに入る時点で2週間で1700ドルはあったんじゃないですかね。上出来です。生活が随分楽になりましたよ。
 アメリカでいろいろな人と知り合うと人脈ができるものです。デボラと出会っていなかったら、今の私はなかったし、アメリカのレストランで働くという経験もなかったですね。そして小杉さんが有名になったから私のヘッドハンティングも成功したということです。

 まあ、基本的に私はよく仕事をしますよ。仕事と思っていないんでね。辛いこともありますよ、でも楽しいこともある。お客さんに「美味しい」と言われると嬉しいじゃないですか? そして常連さんになれば売り上げも安定しますしね。AXISもそうで、儲かりもしないものを毎月やっている。それでもアトランタの生活情報誌として、少しは役に立っているんだと思います。
 来年1月からオンラインだけにすると言っていましたが、皆さんの意見を尊重して紙を継続します。「紙の貴重さ」ですかね。とりあえず半年延期ですが、たぶんアトランタを去るまで続けると思いますね。これも1つの社会貢献かも?とも思うわけです。

 究極の仕事とは何なのか? 私は最近思うに、やはりお金儲けだけではないと思いますね。社会の役に立つことをしないといけない。美味しいものを提供して人々に満足してもらう、なおかつ健康的なものを提供し健康になってもらう。そうすれば病気しないから政府の支出も減らせる、そうなれば立派な社会貢献ですよね。

 来年出す予定の野菜の本は、そこがポイントです。アメリカ人にもっと美味しい野菜を食べてもらいたい。そして少しでもジャンクフードや肉食から菜食にシフトしてもらいたい。そうすれば、糖尿病は減るだろうし、政府の支出も減るわけです。
 今のアメリカは後追いです。病気になる、そして医療費の支出が増えるのです。そうでなくて、健康的なものを提供して、病気にならないようにしないといけないのです。そのために私のような健康的な日本人が自らの経験を元に減量したことを書き、何を食べているのかを公表しないといけない。 人間皆、綺麗でありたい、健康でありたい、長生きしたいでしょう?これが私の仕事、ライフワークであり、アメリカに招かれたことへの恩返しとなるのです。すなわち究極の仕事です。




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