渡米前の私

 ある方から、「日本では何をしていたんですか?」と訊かれました。

 私は18から28まで銀座エスペランサという婦人靴の専門店で働いていました。まったくの偶然です。小売店で働くなど考えていなかったですね。
 元々、高校時代からすでに渡米を考えていました。ところが両親は反対し、それに反抗するように18歳で家を出ています。京都の専門学校に行く予定でしたが、これも数日で辞め、ここで親に「帰ってきなさい」と言われましたが、断り働くことを決意しました。
 たまたま河原町を歩いていて、「店員募集」の張り紙があったので、入社したのです。銀座という名前だったので、大きいなあぐらいのことしか考えていませんでした。

 接客業をしたことのない、今とは全く違う内気な田舎者でしたよ。それが変わったのが店外催事でしたね。三越と結構取引があった関係上、三越の催事によく出ていました。高松や北浜の三越にはよく行きました。そこでどういうわけが実績を作ったんですね。物を売ることの喜びを知ったわけです。「金儲けって面白い」とね。
 売れば売るだけ販売奨励金が出ます。当時で月間200万円で1千円でした。その後10万円ごとに千円増えていくのです。500万円売れば3万円も給料が増えました。これが若い私には楽しかったですね。そして出張に行けば手当てが出るから、さらにお金が浮くわけですね。これも良かった。

 そうしているうちに会社が香港に店を出すことになり。手を上げましたが、ダメでした。ただし、2年後に社長から行かせるといわれ、感激でしたね。
 ところが英語が使えると思った香港は実は広東語だった。21歳か22歳だったと思いますよ。若かったので辛抱できなかったですね。3ヶ月でギブアップしました。それで会社を辞めようと思いました。
 香港に赴任してから、毎日なんらか感じたことをレポートしていました。暇だったんですね。それをほぼ毎週のように東京本部に送っていましたが、何の対応もしてくれなかった。その腹いせもあったでしょうかね。
 神戸にいた社長は、私がそんなレポートを書いていたのを知らなかったみたいで、全部読んでくれました。「これだけ、会社のことを考えている人間を辞めさせるわけにはいかない。神戸に戻って、その仕事をしなさい」となったのです。
 当時、神戸の三宮の店には、社長の息子の副社長が店長でした。私はその下で主任として働き、午前中は神戸の問屋さんを回り香港に合いそうな靴を探し、それをパッキングして航空貨物会社に引渡し、それが終わったら店にいって普通に仕事をしていました。半年に1回は香港に出張もしましたかね。その後シンガポールも開けたので、シンガポールにも数回行っています。

 そうこうしているうち、東京の本部で事件があり、責任者が格下げになり、副社長が東京に行くというので、私は店長に抜擢されました。確か22歳で年商3億円以上の店を任されたわけですが、他の店の店長はみな、30歳を超えた人ばかりでしたかね。

 神戸で実績を作りましたが、札幌の店が業績不振で、建て直しに行ってくれと言われたので、いきました。最初の半年は苦しかったものの、その後は順調に売り上げを伸ばし、2年で札幌を後にし、東京の本部に招かれました。
 ところが、マーチャンダイザーとして仕事を始めたのに、それらしい仕事がないわけです。そうこうしているうちに、六本木の店が不振になり、今度は六本木店長に赴任することになるのです。2回目の再建です。私なら何かやると思ってのことだったんでしょうね。

 その六本木はバブルの最後のことでしたかね。不良債権ならぬ不良在庫を沢山抱えていましたが、私はそれを巧みに処理して売り上げも大きく伸ばしました。
 ここであるパチンコ屋の社長に出会うのです。千葉に店がありますが麻布の家賃200万円のマンションに住んでいました。元々は千葉三越のオートクチュールの方からの依頼で、服に合わせて靴を作りたいというのが始まりでしたかね。
 その後は、自分が担当するようになり、可愛がってもらいましたが、あるとき秘書をやらないかと言われ、このまま靴屋で終わるのか?と疑問がわいたわけです。
 それで、違う世界も見ようということになり、10年勤めたエスペランサを辞め、パチンコ屋に入ったのです。ところが思ったこととは違うことが多く、1ヶ月でやめましたかね。

 何か自分でしたいと思い出したのはこのころです。店を開ける準備もしていましたが、なかなか厳しく、ある雑誌でコンビニのオーナーのことがあったので、行ってみました。そして儲かりそうなので、加盟店になったわけです。駒場の店のオーナーになりましたが、競合のセブンイレブンにいつもお客を取られていました。苦肉の策で、自前で弁当を作りだしました。これは当たりましたね。パスタやマーボー丼などできたてを買ってくれましたからね。
 免許がないのに、無理やり酒を売って目黒税務署とやり合った事もあります。抜け道を使いましたけどね。最後は相手が黙認しました。やればなんでもできるのです。

 そのうち、アメリカの友人が抽選の永住権があることを教えてくれ、応募したのです。仲間3人で応募して当たったのは私だけでした。確か確率は24万分の1だったと思います。
 ところが当たってもすぐには決断できませんでした。結婚もしていたし、店もありましたからね。しばらく放置して諦めていたのです。
 店のお客さんの息子がいて、彼がミシガンに留学するという話がありました。彼は自分で願書を取り寄せていたと思います。

 17歳の高校生がそこまでやっているのに、私はどうして躊躇しているんだろう、愚か者!でしたね。そしてこの少年に刺激を受け、アメリカ行きを決意したのです。
 そこからが大変、日本で当たってもアメリカで仕事がないと受け入れてくれないのです。カールさんという知り合いにも訊ねてもらいましたが、結果的には日本人の友人が神戸ステーキに働いていたので、頼んでくれたということです。
 ところが締め切りが迫っています。当選してから1年以内に手続きしないと無効になるのです。ぎりぎりの状態でした。

 確か締め切りの前日に目黒のヤマトにアメリカから書類が届き、私はそれを自分で取りに行き、翌日アメリカ大使館に持っていき、OKをもらいました。担当者も「今日が最後の締切日、間に合ってよかったですね」と覚えていてくれたので祝福してくれました。
 後は、コンビニを本部に引き取ってもらい、投資した1400万円は戻ってきませんでしたが、300万円を持ってアメリカに渡ったのです。

 何回挫折しています? いくらお金を失っています。すべて授業料じゃないですか? 道中何があろうと、最後に笑えば良いのです。
 そして世の中、勉強だけできても役に立たないということも分かりますでしょう? 勉強好きなら学者や博士になればいい。
 世の中生きていくには、「世渡り術」が必要ですよね。そしてこれは学校では教えてくれないのです。おかしなことにね。
 学校では、社会で役に立たない数学や歴史などしか教えてくれません。どうして学校の科目に「世渡り科」というのがないんですかね。世間を実社会を生きていくために術を教える。面白いじゃないですかね。

 

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