父から娘への手紙 12通目 修正しました
昨日は美味しいワインと肉だったね。満足してくれたことと思う。時間は一流のイタリアンに行こうではないか?
さて、今回は「許す」ということについて書いてみよう。実は今日、私はこの2週間ほどビジネスをカットしていた業者と取引を再開した。
まあ、オンタイムなデリバリーができなかったこと。夏場にアイスクリームや冷凍物の解凍があったことに対して何も対処もしていないように思えたので腹が立って打ち切ったわけです。
その後、先方は配達のスケジュールを見直すといい、冷凍物についても専用の容器を用意するということで善処する方向が見えてきたんでね、まあ再開することにした。もちろん、相手方は感謝していたよ。
私は冷酷な人間ではないんで、打ち切ったものをそのまま継続するつもりはなかった、オープン以来の長い付き合いの会社でもあり、今回のように2週間で再開することにした。
この前は、人間関係でもそうした進展があった。少し前に絶交をした人間と、また付き合いを再開した。その理由は大してない。思えば一時の感情からそうなったのかも知れない。
また、距離を置いてみて、そのままでも良かったが、全く別のことから先方からメールを頂き、感謝をされたことで、また元の鞘に戻ったわけだ。
ただし、お互いが過去のことを十分理解しているだけに、これは元の鞘ではなく新しい鞘なんだと思う。
それは何かというと、お互いが気を使うということではないだろうか? 寸止めではないが、中傷になるようなことは避けるようになっている。つまらないことでまた同じような過ちを犯さないように配慮があることではないか。
年齢が近いこともあり、お互いに人生の悩みは尽きないよ。そしてお互いの環境も違う、生活のサイクルも違うで、意見の一致はないのだが、それでも悩みを聞いてくれる人がいるのは良いことだと思う。
そして、その人なりの意見を出してくれ、それも正直な意見を出してくれることが実にありがたいことだと思う。
もちろん、私も謝ったよ。「前回は行き過ぎた」とね。ただ、それでも心の底に憎しみとか恨みとはは一切ない。これが実に不思議だと思う。今朝もメールを出したが「今週も頑張れ」と簡単。先週末は少し辛いことがあったようで、それにエールを送った。すると相手からも「あんたもね」と返ってくる。それ以上の詮索はない。
人を許すとは、どういうことなんだろう? 誰かがミスを犯す、間違える。それによって被害を被る。そこには怒りがあり憤慨がある。
しかし、それを抑えて人を許すことができるかどうかが問題。心の広い人は、許せるのだろう。そして心の狭い人は許せないのだろう。
最近、私はJoel Osteenという宗教家の書いた本をCDで聴いているが、彼の理論でいえば、そういうときにこそ「助け舟」を出しなさいといっている。
すなわち、ミスをした人、失言した人、間違いをした人を許しなさい、と言っている。これをどう解釈し、どう理解するかだが、私はキリスト教の精神はそこにあるのではないかと思っている。
だから、右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しなさいというのではないか?普通のケースでいえば、誰かがミスして怒って当たり前。でも怒って何になるの?だよね。それなら怒りを静めて、逆の方向に打って出る、それが許すということなのではないだろうか?
もちろん、私も人間で、カッとなり「この馬鹿」と怒るときもある。でもそれでお終いにしている。あとは、「今度から気をつけろ」で終わらせる。
そしてミスした人を怒るときには、自分の過去の失敗例も出して、「だから気をつけなさい」と言うように心がけている。自分の失敗を話すことによって、相手は安心するんだと思う。
それでは逆に許せない人はどうして許せないのだろう? 上記したように何かミスを犯した人を広い心をもって許すのは簡単なことだ。しかしながら、それができないのはどうしてなのか? それ、すなわち、その人の思慮が浅いからだろう。思いやりがないからだろう。自分だってミスするだろうに、自分のミスは黙認して許して欲しいのに、他人のミスは許せない。そんな人が世の中には沢山いると思う。
例えば喧嘩するにしても、物事が上手く運ばなくなり、もつれるとしても、それは必ず両方に問題があるケースが多い。そしてその原因を1つずつ潰していけば、双方の非を認め許していけば問題は解決し、仲直りもできる。
ところが、そうした議論のテーブルにもつかずに、一方的に「私の非でした」などと言い、中身のない終わり方をされると、後味が悪く、それをいつまでも引きずってしまう。
どうして問題の解決を図らないのか? 抽象的なことで済ませずに、具体的に問題解決を図らないと思うのだが、それでは前に進めないのではないかと思う。
よく「おまえ、しっかりせえ」と励ます。そして「頑張ります」と言うのもいい。でも何を頑張るの?とならないか? なんとなく頑張るのか? それでは上手く行かないというのが私の理論だけど。
ビジネスもそう、人間関係もそうではないか?そういうのがあって初めて「許せる」のではないだろうか? 今回は、少し難しいかもしれないな。 父
さて、今回は「許す」ということについて書いてみよう。実は今日、私はこの2週間ほどビジネスをカットしていた業者と取引を再開した。
まあ、オンタイムなデリバリーができなかったこと。夏場にアイスクリームや冷凍物の解凍があったことに対して何も対処もしていないように思えたので腹が立って打ち切ったわけです。
その後、先方は配達のスケジュールを見直すといい、冷凍物についても専用の容器を用意するということで善処する方向が見えてきたんでね、まあ再開することにした。もちろん、相手方は感謝していたよ。
私は冷酷な人間ではないんで、打ち切ったものをそのまま継続するつもりはなかった、オープン以来の長い付き合いの会社でもあり、今回のように2週間で再開することにした。
この前は、人間関係でもそうした進展があった。少し前に絶交をした人間と、また付き合いを再開した。その理由は大してない。思えば一時の感情からそうなったのかも知れない。
また、距離を置いてみて、そのままでも良かったが、全く別のことから先方からメールを頂き、感謝をされたことで、また元の鞘に戻ったわけだ。
ただし、お互いが過去のことを十分理解しているだけに、これは元の鞘ではなく新しい鞘なんだと思う。
それは何かというと、お互いが気を使うということではないだろうか? 寸止めではないが、中傷になるようなことは避けるようになっている。つまらないことでまた同じような過ちを犯さないように配慮があることではないか。
年齢が近いこともあり、お互いに人生の悩みは尽きないよ。そしてお互いの環境も違う、生活のサイクルも違うで、意見の一致はないのだが、それでも悩みを聞いてくれる人がいるのは良いことだと思う。
そして、その人なりの意見を出してくれ、それも正直な意見を出してくれることが実にありがたいことだと思う。
もちろん、私も謝ったよ。「前回は行き過ぎた」とね。ただ、それでも心の底に憎しみとか恨みとはは一切ない。これが実に不思議だと思う。今朝もメールを出したが「今週も頑張れ」と簡単。先週末は少し辛いことがあったようで、それにエールを送った。すると相手からも「あんたもね」と返ってくる。それ以上の詮索はない。
人を許すとは、どういうことなんだろう? 誰かがミスを犯す、間違える。それによって被害を被る。そこには怒りがあり憤慨がある。
しかし、それを抑えて人を許すことができるかどうかが問題。心の広い人は、許せるのだろう。そして心の狭い人は許せないのだろう。
最近、私はJoel Osteenという宗教家の書いた本をCDで聴いているが、彼の理論でいえば、そういうときにこそ「助け舟」を出しなさいといっている。
すなわち、ミスをした人、失言した人、間違いをした人を許しなさい、と言っている。これをどう解釈し、どう理解するかだが、私はキリスト教の精神はそこにあるのではないかと思っている。
だから、右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しなさいというのではないか?普通のケースでいえば、誰かがミスして怒って当たり前。でも怒って何になるの?だよね。それなら怒りを静めて、逆の方向に打って出る、それが許すということなのではないだろうか?
もちろん、私も人間で、カッとなり「この馬鹿」と怒るときもある。でもそれでお終いにしている。あとは、「今度から気をつけろ」で終わらせる。
そしてミスした人を怒るときには、自分の過去の失敗例も出して、「だから気をつけなさい」と言うように心がけている。自分の失敗を話すことによって、相手は安心するんだと思う。
それでは逆に許せない人はどうして許せないのだろう? 上記したように何かミスを犯した人を広い心をもって許すのは簡単なことだ。しかしながら、それができないのはどうしてなのか? それ、すなわち、その人の思慮が浅いからだろう。思いやりがないからだろう。自分だってミスするだろうに、自分のミスは黙認して許して欲しいのに、他人のミスは許せない。そんな人が世の中には沢山いると思う。
例えば喧嘩するにしても、物事が上手く運ばなくなり、もつれるとしても、それは必ず両方に問題があるケースが多い。そしてその原因を1つずつ潰していけば、双方の非を認め許していけば問題は解決し、仲直りもできる。
ところが、そうした議論のテーブルにもつかずに、一方的に「私の非でした」などと言い、中身のない終わり方をされると、後味が悪く、それをいつまでも引きずってしまう。
どうして問題の解決を図らないのか? 抽象的なことで済ませずに、具体的に問題解決を図らないと思うのだが、それでは前に進めないのではないかと思う。
よく「おまえ、しっかりせえ」と励ます。そして「頑張ります」と言うのもいい。でも何を頑張るの?とならないか? なんとなく頑張るのか? それでは上手く行かないというのが私の理論だけど。
ビジネスもそう、人間関係もそうではないか?そういうのがあって初めて「許せる」のではないだろうか? 今回は、少し難しいかもしれないな。 父
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