吉田 潤喜(よしだ じゅんき)- アメリカン・ドリームの体現者
吉田 潤喜という名前を知っている人は少ないはずですが、レストラン関係者ならYOSHIDA SAUCEの名前ぐらいは知っていることと思います。
1949年12月7日、7人兄弟の末っ子として京都で生まれる。
アメリカにあこがれて、1969年1月24日に単身渡米する。
波乱万丈のアメリカ生活をサバイブした末、自家製秘伝のタレをベースにしたヨシダソース(正式名称:ヨシダグルメのたれ®)を生産販売してアメリカンドリームの体現者となる。
米国の中小企業局、Small Business Administration(SBA)が50周年記念のGolden Anniversaryに選んだ全米24社の中に、FedExやインテル、AOL、ヒューレットパッカードなど並んで「殿堂入り」を果たす。
2005年にNewsweek誌(日本版)「世界で最も尊敬される日本人100」に選ばれ、2010年7月にはオレゴン州と日本の友好に貢献したとし「外務大臣賞」を受賞する。
現在、ヨシダグループとして18社を抱え、グループの会長職務と地元料理番組のレギュラー出演、各地での講演から、日本国内での様々な番組出演・各メディア取材などこなし、世界中を飛び回る日々を送っている。
立命館大学への受験が失敗したことも手伝って、1968年、当時19歳だった潤喜は「アメリカに行く!」という「人生最大の決断」をした。
まだ19歳だった潤喜を気遣って、猛反対をした吉田家であったが、その中でも一人だけ味方をしてくれたのは、母親だった。内心では心配でたまらない気持ちであったと思われるが、母親は別の理由でコツコツと貯金していたしていたお金と近所に借金しようやく工面したお金で何とか往復航空券と500ドルの餞別を揃え、潤喜はそれらを握り締め、1969年1月24日金曜日(ノースウェスト航空008便)アメリカシアトルへと向かった。
「成功するまで帰らない!」と誓った潤喜は、渡米後するなり帰りの航空券を現金に換えると、その後の7~8ヶ月間自身の「自宅」となった中古車、クライスラーのプリモスを購入した。その後、幸運にもガーデナー(芝刈り業)のアルバイトを見つけることが出来たが、厳しい労働、安月給のため、餓死寸前の状態で2度も入院したほどだった。
当時の潤喜は当然のこと不法就労者であった。同じ状況にあった自分の仲間が移民局に見つかり、強制送還されたため、姿を見せることがなかったりと「いつ自分が・・・」という恐怖にビクビクしながらも、アルバイトを続けていた。
不安が的中し、1度目の連行。幸運にもガーデナーの元締めが助けてくれた。安心したのも束の間、2度目の連行。さすがに覚悟を決めた潤喜だったが、たまたま居合わせた思いもよらない人物、移民局職員のマリアンヌに助けてもらうことになる。
そんな幸運が続いたことをきっかけに、強制送還の危機から逃れるため、さらには自身の英語力をつけるためにも、ハイライン・コミュニティー・カレッジ(ワシントン州/シアトル)に入学することになった。
大学入学し、住み込み「ハウスボーイ(芝刈り・皿洗いなど)」の仕事を見つけ、苦しいながらも食べるに困らない生活を送ることが出来た。
大学に通う毎日が当たり前となった頃、一人の女性に一目ぼれした。後に妻となったリンダ・マクファレンである。
少々強引であったが、気持ちの抑えられなかった潤喜は、わずか2週間でプロポーズ、熱意に負けたリンダは結婚を承諾した。楽しい日々が続き、2人の結婚への決意は固いものになっていったが、大きな壁にぶち当たる。リンダの父親、ブーマー・マクファレンだ。
ブーマーは、初対面にも関わらず潤喜に「ダッド(お父さん)」と呼ばれた、さらに日本人である彼を到底受け付けることが出来ずにいた。恐らく彼も2人の熱意に負けてしまったのだろう、2人は晴れて結婚する事となる。
空手を教えて生計を立てていた潤喜だったが、それだけでは生活出来ないと思い、ブーマーが勤めていたユナイテッド航空のキッチンにてアルバイトを始めた。ところが、オレゴンにある空手道場が故あって続けられなくなったことを聞き、潤喜が引き継ぐことになった。
「空手を教える」ことが軌道に乗り、安定していくにつれて、ワシントン州とオレゴン州における日本空手道連盟の主席師範に任命されることにつながったのである。その後、米国北西部地区の全域に渡って、警察官のために独自の逮捕術を基に訓練プログラムを考案、指導してほしいとの依頼を受けることになった。後にこの逮捕術訓練プログラムは、オレゴンとワシントン両州において、刑務所の看守資格の取得や現役警察官の訓練プログラム、そしてまた、スワット(特別機動隊)チームの指導教官コースの全てに必修科目として採用されることになった。
潤喜たちの生活は安定するかに思われた。
1980年カーター政権末期、「不況」が襲い、3女も生まれようとしていた頃に空手道場の生徒も3分の1に落ち込んでしまい、潤喜たちの生活も再び苦しい生活が続いていた。
1981年のクリスマスに道場の生徒からたくさんのプレゼントを贈られたが、苦しい生活を送っていた潤喜にはお返しする余裕すらなかった。そこで悩んだ末に思いついたのが、日本の母親が営んでいた焼肉屋の、醤油、みりん、砂糖を8時間煮込んだソース。潤喜たちは、このソースを作ってビン詰めをし、リンダがリボンをかけて生徒達にプレゼントした。これが『元祖ヨシダソース』の誕生である。
そのソースは生徒達に「美味しい」と言われ、リピーターが増えていった。「お金を払っても・・・」という生徒が出始めたころ、潤喜は「商売になる!」と信じて道場の地下を使い、1本ずつ丁寧に「ヨシダソース」を生産した。こうして1982年、そのソース一つで「ヨシダフーズ・プロダクツ」が誕生した。
商品を作っていったのはいいが、今度は売らなければいけない。しかし、生徒に売るようには簡単ではなかった。
地元のグロッサリー(食料品店)ですら置いてくれるのは難しい事に気づいた潤喜は「実演販売や!」と思い立ち、食べてもらったら必ず売れると信じて様々なグロッサリーにお願いしてデモをやらせてもらった。デモをやる以上、「目立ってナンボ」と思った潤喜は、着物、下駄、カウボーイハットという何ともミスマッチな格好で「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい」と持ち前の人を楽しませるのが好きな「芸人魂」で買い物客を集め、徐々に売れていった。家族の生活がかかった「ヨシダソース」の成功を全く疑わなかった自信は現実となり、後に大手のマーケットチェーンにて置いてもらうことに成功したのである。
その後「ヨシダソース」が世界の食品マーケットや会員制卸売店に並ぶようになった。
「ヨシダソース」ビジネスが軌道に乗り始め、1984年に新工場建設、地元ラジオにCMを出すなど、潤喜の生活も裕福になり始めていた。そんな生活も長くは続かなかった。気がついたら経営内容は破綻しかけ、自身も「もう会社はだめだ」と思い連日連夜、酒を飲み「やけくそ」な日々が続いた。
そんな時、酔っ払った潤喜にウィスキーのボトルを渡し「もっと飲んで、明日安いアパートを探そう」と言ったのは妻リンダだ。その夜、義理父ブーマーに呼び出され現況を聞かれた。その後ブーマーは黙って「マイ・サン、これを使え」と自身がリタイアする時のことを考えコツコツと貯めていた16万ドルの小切手を手渡された。「マイ・サン」と初めて呼ばれた事、救いの手を差し伸べてくれたこと、感動である。
その後もう一度破産寸前の危機に追い込まれたが、幼少の頃に強くなりたいと「負けるわけにはいかん」「なにくそっ!」という気持ちと、様々な人たちとの素晴らしい出会いから得た「絶対に成功して、お返しする!」という姿勢の甲斐あって「ヨシダソース」が全米の食卓に並ぶようになるまで、それほど時間はかからなかった。
過去20年以上に渡って、潤喜は徐々に、総従業員300人以上、年商1.8億ドル強の17社からなる強力な複合企業、ヨシダグループを構築してきた。
こうした幸運は潤喜に、地域社会や慈善団体の限りない必要性に対して、寛大な資金的援助を可能にした。"Kids on the Block"プログラムの基金募集活動の一貫として、毎年恒例となっている"Yoshida's Sand in the City"のイベントもその一つである。また潤喜は、オレゴン州経済開発局の理事を務めるかたわら、ドエーンベッカー小児病院財団やポートランド・プロビデンス医療財団法人、ランドル子供病院財団法人、子供がん協会、ハイラインコミュニティカレッジ財団の一理事としても貢献している。
まだまだアメリカにはドリームがあるということの証ですかね。
1949年12月7日、7人兄弟の末っ子として京都で生まれる。
アメリカにあこがれて、1969年1月24日に単身渡米する。
波乱万丈のアメリカ生活をサバイブした末、自家製秘伝のタレをベースにしたヨシダソース(正式名称:ヨシダグルメのたれ®)を生産販売してアメリカンドリームの体現者となる。
米国の中小企業局、Small Business Administration(SBA)が50周年記念のGolden Anniversaryに選んだ全米24社の中に、FedExやインテル、AOL、ヒューレットパッカードなど並んで「殿堂入り」を果たす。
2005年にNewsweek誌(日本版)「世界で最も尊敬される日本人100」に選ばれ、2010年7月にはオレゴン州と日本の友好に貢献したとし「外務大臣賞」を受賞する。
現在、ヨシダグループとして18社を抱え、グループの会長職務と地元料理番組のレギュラー出演、各地での講演から、日本国内での様々な番組出演・各メディア取材などこなし、世界中を飛び回る日々を送っている。
立命館大学への受験が失敗したことも手伝って、1968年、当時19歳だった潤喜は「アメリカに行く!」という「人生最大の決断」をした。
まだ19歳だった潤喜を気遣って、猛反対をした吉田家であったが、その中でも一人だけ味方をしてくれたのは、母親だった。内心では心配でたまらない気持ちであったと思われるが、母親は別の理由でコツコツと貯金していたしていたお金と近所に借金しようやく工面したお金で何とか往復航空券と500ドルの餞別を揃え、潤喜はそれらを握り締め、1969年1月24日金曜日(ノースウェスト航空008便)アメリカシアトルへと向かった。
「成功するまで帰らない!」と誓った潤喜は、渡米後するなり帰りの航空券を現金に換えると、その後の7~8ヶ月間自身の「自宅」となった中古車、クライスラーのプリモスを購入した。その後、幸運にもガーデナー(芝刈り業)のアルバイトを見つけることが出来たが、厳しい労働、安月給のため、餓死寸前の状態で2度も入院したほどだった。
当時の潤喜は当然のこと不法就労者であった。同じ状況にあった自分の仲間が移民局に見つかり、強制送還されたため、姿を見せることがなかったりと「いつ自分が・・・」という恐怖にビクビクしながらも、アルバイトを続けていた。
不安が的中し、1度目の連行。幸運にもガーデナーの元締めが助けてくれた。安心したのも束の間、2度目の連行。さすがに覚悟を決めた潤喜だったが、たまたま居合わせた思いもよらない人物、移民局職員のマリアンヌに助けてもらうことになる。
そんな幸運が続いたことをきっかけに、強制送還の危機から逃れるため、さらには自身の英語力をつけるためにも、ハイライン・コミュニティー・カレッジ(ワシントン州/シアトル)に入学することになった。
大学入学し、住み込み「ハウスボーイ(芝刈り・皿洗いなど)」の仕事を見つけ、苦しいながらも食べるに困らない生活を送ることが出来た。
大学に通う毎日が当たり前となった頃、一人の女性に一目ぼれした。後に妻となったリンダ・マクファレンである。
少々強引であったが、気持ちの抑えられなかった潤喜は、わずか2週間でプロポーズ、熱意に負けたリンダは結婚を承諾した。楽しい日々が続き、2人の結婚への決意は固いものになっていったが、大きな壁にぶち当たる。リンダの父親、ブーマー・マクファレンだ。
ブーマーは、初対面にも関わらず潤喜に「ダッド(お父さん)」と呼ばれた、さらに日本人である彼を到底受け付けることが出来ずにいた。恐らく彼も2人の熱意に負けてしまったのだろう、2人は晴れて結婚する事となる。
空手を教えて生計を立てていた潤喜だったが、それだけでは生活出来ないと思い、ブーマーが勤めていたユナイテッド航空のキッチンにてアルバイトを始めた。ところが、オレゴンにある空手道場が故あって続けられなくなったことを聞き、潤喜が引き継ぐことになった。
「空手を教える」ことが軌道に乗り、安定していくにつれて、ワシントン州とオレゴン州における日本空手道連盟の主席師範に任命されることにつながったのである。その後、米国北西部地区の全域に渡って、警察官のために独自の逮捕術を基に訓練プログラムを考案、指導してほしいとの依頼を受けることになった。後にこの逮捕術訓練プログラムは、オレゴンとワシントン両州において、刑務所の看守資格の取得や現役警察官の訓練プログラム、そしてまた、スワット(特別機動隊)チームの指導教官コースの全てに必修科目として採用されることになった。
潤喜たちの生活は安定するかに思われた。
1980年カーター政権末期、「不況」が襲い、3女も生まれようとしていた頃に空手道場の生徒も3分の1に落ち込んでしまい、潤喜たちの生活も再び苦しい生活が続いていた。
1981年のクリスマスに道場の生徒からたくさんのプレゼントを贈られたが、苦しい生活を送っていた潤喜にはお返しする余裕すらなかった。そこで悩んだ末に思いついたのが、日本の母親が営んでいた焼肉屋の、醤油、みりん、砂糖を8時間煮込んだソース。潤喜たちは、このソースを作ってビン詰めをし、リンダがリボンをかけて生徒達にプレゼントした。これが『元祖ヨシダソース』の誕生である。
そのソースは生徒達に「美味しい」と言われ、リピーターが増えていった。「お金を払っても・・・」という生徒が出始めたころ、潤喜は「商売になる!」と信じて道場の地下を使い、1本ずつ丁寧に「ヨシダソース」を生産した。こうして1982年、そのソース一つで「ヨシダフーズ・プロダクツ」が誕生した。
商品を作っていったのはいいが、今度は売らなければいけない。しかし、生徒に売るようには簡単ではなかった。
地元のグロッサリー(食料品店)ですら置いてくれるのは難しい事に気づいた潤喜は「実演販売や!」と思い立ち、食べてもらったら必ず売れると信じて様々なグロッサリーにお願いしてデモをやらせてもらった。デモをやる以上、「目立ってナンボ」と思った潤喜は、着物、下駄、カウボーイハットという何ともミスマッチな格好で「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい」と持ち前の人を楽しませるのが好きな「芸人魂」で買い物客を集め、徐々に売れていった。家族の生活がかかった「ヨシダソース」の成功を全く疑わなかった自信は現実となり、後に大手のマーケットチェーンにて置いてもらうことに成功したのである。
その後「ヨシダソース」が世界の食品マーケットや会員制卸売店に並ぶようになった。
「ヨシダソース」ビジネスが軌道に乗り始め、1984年に新工場建設、地元ラジオにCMを出すなど、潤喜の生活も裕福になり始めていた。そんな生活も長くは続かなかった。気がついたら経営内容は破綻しかけ、自身も「もう会社はだめだ」と思い連日連夜、酒を飲み「やけくそ」な日々が続いた。
そんな時、酔っ払った潤喜にウィスキーのボトルを渡し「もっと飲んで、明日安いアパートを探そう」と言ったのは妻リンダだ。その夜、義理父ブーマーに呼び出され現況を聞かれた。その後ブーマーは黙って「マイ・サン、これを使え」と自身がリタイアする時のことを考えコツコツと貯めていた16万ドルの小切手を手渡された。「マイ・サン」と初めて呼ばれた事、救いの手を差し伸べてくれたこと、感動である。
その後もう一度破産寸前の危機に追い込まれたが、幼少の頃に強くなりたいと「負けるわけにはいかん」「なにくそっ!」という気持ちと、様々な人たちとの素晴らしい出会いから得た「絶対に成功して、お返しする!」という姿勢の甲斐あって「ヨシダソース」が全米の食卓に並ぶようになるまで、それほど時間はかからなかった。
過去20年以上に渡って、潤喜は徐々に、総従業員300人以上、年商1.8億ドル強の17社からなる強力な複合企業、ヨシダグループを構築してきた。
こうした幸運は潤喜に、地域社会や慈善団体の限りない必要性に対して、寛大な資金的援助を可能にした。"Kids on the Block"プログラムの基金募集活動の一貫として、毎年恒例となっている"Yoshida's Sand in the City"のイベントもその一つである。また潤喜は、オレゴン州経済開発局の理事を務めるかたわら、ドエーンベッカー小児病院財団やポートランド・プロビデンス医療財団法人、ランドル子供病院財団法人、子供がん協会、ハイラインコミュニティカレッジ財団の一理事としても貢献している。
まだまだアメリカにはドリームがあるということの証ですかね。
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