皆さんは、これをどう思うでしょうか?
以下は「評論あすく」に塚本三郎さんが書いたものです。塚本さんといえば、元民社党の委員長だったので、覚えている方もいるでしょう。
今日、最も期待されているのは人間教育である。かつては、世界で一番治安の良い、そして貧しくとも平和で、なごやかな家庭こそ、我々の誇るべき穏やかな日本社会であった。
庶民の大部分は、長屋などの貧弱な家屋で育ち、貧乏生活であった。しかし、隣近所の家庭を充分に知り尽くして、それなりに助け合い、いたわり合って育った。それが戦中、戦後の日本社会であり、平均的家族であった。
近 所で夫婦喧嘩があれば、大家などの町内の指導者が、仲裁に入ることが当り前の習慣であり、近所はそれなりに秩序が保たれた。だから、犯罪や事件など起こることはなく、今日の如き交通事故なども想像できなかった。
狭い借家で育った子供達は、家の中で騒いで過ごすよりも、「外へ出て遊んでこい」と親に叱られて、道路や、近所の空地を走り回る。
町には交通と呼ぶ派出所の巡査が、ときおり各戸の動静を聞き取りに来るが、町の人達は、隣近所の動静は全部知り尽くしているから、巡査を非難することは夢にも考えられなかった。
どこかで、傷害事件でも起きれば珍しくて、一カ月ほどの間は、街中の語り草となった。
人生は、「いろはかるた」を読み、暗記させることが第一だと言っておられたのは、私の恩人であり師匠である春日一幸であった。
「犬も歩けば棒に当る」「論より証拠」「花より団子」「人(ニン)を見て法を説け」と。人生の極意はこの四十八句に限る。というのが春日の説であった。
欲を言えば、いろはかるたから更にすすんで「小倉百人一首」も、人生を豊にする。
お祭りや、お正月ともなれば、親戚兄弟、そして近所から集まって来る人々によって、必ず、「いろはかるた」や「小倉百人一首」のかるた会で競り合いとなる。子供達は無理に勉強しなくとも、その句を覚え、頭の枕言葉を耳にして、すぐ手を出して取る。
今日の親達が、競って塾通いをさせている姿と比べてみるが良い。人情や自然に接することの、余りにも少ない子供達に今一度、昔の教育を懐古趣味と言わずに、家庭や近所で普及させて如何か。
機械は、人間が使うものであって、人間が機械に使われるものではない。今日の日常生活の主役はテレビになってしまった。本末転倒である。漢字とひらがなを加えた言葉は「日本の文化」として世界に誇って良い。漢字はその「ことばと共に、深い真理、心の思い」がこめられている。同じ音の言葉でも書く時には、その意味によって異なる漢字が幾種類もある。
水野靖夫著『意外と書けないよく見る漢字』を頂いた。それによると同じ読みのオンでも漢字で書くと四種も五種もある。意味はそれぞれ異なる。字を「読み書く」ことが大切だ。また、日本人が計算に強いのは、「暗算」に強いからで、子供の頃からのそろばんによる計算力を練り上げて、脳を錬えて来からだと思う。子供の時の暗記力と計算力は、その人の一生を支える、最大の力となる。
昔がすべて良かったと思わない、しかし静かで穏やかで良かった。現代の日本はどうしてこんなに騒々しい社会となったのか。そんな思いが、年寄りの愚痴となってしまっている。
子供の教育は、三つ子の魂百までと云い、子は親の背中を見て育つ。そのことを、最近の親は余りにも軽視していると思う。家庭内では、すべて親に権利があり、責任がある。
最近、嘆かわしく論ぜられる日本社会混乱の原因を問うてみれば、夫婦の離婚や、別居生活の場合が多い。二度と来ない人生だから、好き勝手に振舞いたいと願う気持ちは理解する。しかし、自分達には、生み、育ててくれた両親が在り、そして兄弟が居るではないか。まして大切な子が居たとすれば、自分達夫婦のみの幸せ第一で良いのか。子はかすがいと言うのは封建主義だと笑って過ごせるか。人を悲しませれば、その悲しみよりも、もっと多くの悲しみと苦労が、自分自身の身に振り返ってくる。それが因果の法理だと仏教は説く。
人生には、我慢と堪忍が大切と仏法は説く。自由競争は必要であるが、その結果は、時としてゆきすぎて悪いことも在る。
人間が、貧富や、地位の差が出来てくるのは、自由と競争の社会では避けられない。だからといって、無条件で論じてゆけば、悪いことに変わってしまう。人間の能力には、長短、大小の差がある。その人々によって、根性も、努力も一様ではないから、出発点が平等であっても、その先にゆくことで、差が出来ることは当然、否、差の大小が出来ることこそ平等社会ではないのか。
自由でも、平等でも、日本人の戦後には新しい希望を与えてくれたことは確かである。だがそれ等の思想に対して、限度を厳しく教えて来なかった。否、教えて来たけれども、日本人の身に付いて居なかった。子供の時の「躾として身に付ける」ことを、家庭の仕事、親の責任として、行なって来なかったからではないか。
日本は狭い国土の中で、人口の増加による住宅不足によって、長年、親子二所帯家族、時には祖父母、両親、若夫婦と三所帯家族さえ珍しくなかった。そんな住生活には不自由が山積していた。それでもなお、人間として良かったことも多い。
苦労を重ねた親の努力と愛情、そして良き慣習が、おのずと次世代に引き継がれて、子供の魂として自然に備えさせた。まさに、親の背中が、子供の心の鏡であった。
戦後の豊かさは、自由が物心共に許される時代となった。核家族の出現である。
経済の発展成長は、住宅事情の変化を招き、新婚家庭では、まず、自分達の生活の城を築くことが、当然の夢である。清潔で近代的なキッチン。そして子供部屋まで用意する。その結果、両親や、祖父母と距離の遠い生活となる。
老夫婦も、時代の波と受け止めてそれを認め、むしろ子や孫の騒々しい生活から離れた自由な生活を満喫している。この時代の波の中で、誰が子や孫の教育や躾をするのか。
幼児の教育は誰がするのか。保育園、幼稚園、学校に任せて、自分たちは社会に出て稼ぐ。この慣習を非難するつもりはないが、家庭生活はどうなるのか。子供の教育は、他人任せの時代と化し、親の真の愛情や温かさや、肌と肌のふれあいが狭められ、親や先輩の長所を学ぶ手本が、苦労と共に消されてしまいつつある。
夜おそく電車に乗ると、意外なことに、いつも満席で、青年男女は、なぜこんな夜おそくまで外出するのか。車内では、例外なく携帯をヒネッテいる。友と話すより携帯が友である。若者にとっては、夜が憩いの時かもしれない。老人には、はかり知れない世代がおとずれている。
実は、「たまには本でも」と思いながら、3冊の本をネットで購入しました。その1冊は「ルポ 貧困大国 アメリカ」です。他の2冊もアメリカに関するもので日本語で書かれたものですが、まだまだ知らないことが山ほどあると思い買いました。貧困の本を知ったきっかけは、確かアメリカがイスラエルに援助を行っているであろうということで、その金額などを知りたかったのですが、Googleしているうちに行き着いたものでした。そして調べていくと、「やがて日本もアメリカのようになる。いやすでにそうなって来ている」ということを感じたのです。それで、やはりその本を読む必要があるのではないかと思いました。一般的にアメリカに関して書かれている本の多くは、商社の駐在員や評論家などといわれる上の層の人たちによって書かれたものでしょう。それは上辺のアメリカしか書かれていない。彼らは本当のアメリカを知らないからです。下層のアメリカこそが本当のアメリカです。貧困に悩む下層はおそらく50%を越えていると思います。そしてどんどん入ってくる不法移民たち、彼らも貧困、そして「アメリカの方が自国よりもマシ」ということで、ここで生活するのです。
最近、Buford Hwy.Farmers Marketには東欧系の食料品が並び始めました。ロシア語のような表記が目立ちます。旧ソ連の国からの移民が多いからでしょう。アメリカは世界中から人々を呼び寄せています。ここで立ち上がり、這い上がっていくのも人生でしょう。不法とか合法とかは彼らには関係ないでしょう。生きるのに必死だと思います。
話は横に逸れましたが、日本はさらにアメリカ化します、というか国際化していくのです。それが良い方向なのか、悪い方向なのかは別にして変わっていくのです。昨日のニュースに「タクシー運転手殺害、現金目当ての犯行か」というのがありました。運転席側と後部座席の間には仕切りがそろそろ必要になるでしょう。これも1つの例です。簡単に考えればタクシーの運転手は数万円の現金を持っているのですから、狙われて当たり前です。ただ、これまではそういう考え方はなかった、タブーでしたよね。これからは違ってくるのです。そのために本を読み知識を更新しないといけません。
今日、最も期待されているのは人間教育である。かつては、世界で一番治安の良い、そして貧しくとも平和で、なごやかな家庭こそ、我々の誇るべき穏やかな日本社会であった。
庶民の大部分は、長屋などの貧弱な家屋で育ち、貧乏生活であった。しかし、隣近所の家庭を充分に知り尽くして、それなりに助け合い、いたわり合って育った。それが戦中、戦後の日本社会であり、平均的家族であった。
近 所で夫婦喧嘩があれば、大家などの町内の指導者が、仲裁に入ることが当り前の習慣であり、近所はそれなりに秩序が保たれた。だから、犯罪や事件など起こることはなく、今日の如き交通事故なども想像できなかった。
狭い借家で育った子供達は、家の中で騒いで過ごすよりも、「外へ出て遊んでこい」と親に叱られて、道路や、近所の空地を走り回る。
町には交通と呼ぶ派出所の巡査が、ときおり各戸の動静を聞き取りに来るが、町の人達は、隣近所の動静は全部知り尽くしているから、巡査を非難することは夢にも考えられなかった。
どこかで、傷害事件でも起きれば珍しくて、一カ月ほどの間は、街中の語り草となった。
人生は、「いろはかるた」を読み、暗記させることが第一だと言っておられたのは、私の恩人であり師匠である春日一幸であった。
「犬も歩けば棒に当る」「論より証拠」「花より団子」「人(ニン)を見て法を説け」と。人生の極意はこの四十八句に限る。というのが春日の説であった。
欲を言えば、いろはかるたから更にすすんで「小倉百人一首」も、人生を豊にする。
お祭りや、お正月ともなれば、親戚兄弟、そして近所から集まって来る人々によって、必ず、「いろはかるた」や「小倉百人一首」のかるた会で競り合いとなる。子供達は無理に勉強しなくとも、その句を覚え、頭の枕言葉を耳にして、すぐ手を出して取る。
今日の親達が、競って塾通いをさせている姿と比べてみるが良い。人情や自然に接することの、余りにも少ない子供達に今一度、昔の教育を懐古趣味と言わずに、家庭や近所で普及させて如何か。
機械は、人間が使うものであって、人間が機械に使われるものではない。今日の日常生活の主役はテレビになってしまった。本末転倒である。漢字とひらがなを加えた言葉は「日本の文化」として世界に誇って良い。漢字はその「ことばと共に、深い真理、心の思い」がこめられている。同じ音の言葉でも書く時には、その意味によって異なる漢字が幾種類もある。
水野靖夫著『意外と書けないよく見る漢字』を頂いた。それによると同じ読みのオンでも漢字で書くと四種も五種もある。意味はそれぞれ異なる。字を「読み書く」ことが大切だ。また、日本人が計算に強いのは、「暗算」に強いからで、子供の頃からのそろばんによる計算力を練り上げて、脳を錬えて来からだと思う。子供の時の暗記力と計算力は、その人の一生を支える、最大の力となる。
昔がすべて良かったと思わない、しかし静かで穏やかで良かった。現代の日本はどうしてこんなに騒々しい社会となったのか。そんな思いが、年寄りの愚痴となってしまっている。
子供の教育は、三つ子の魂百までと云い、子は親の背中を見て育つ。そのことを、最近の親は余りにも軽視していると思う。家庭内では、すべて親に権利があり、責任がある。
最近、嘆かわしく論ぜられる日本社会混乱の原因を問うてみれば、夫婦の離婚や、別居生活の場合が多い。二度と来ない人生だから、好き勝手に振舞いたいと願う気持ちは理解する。しかし、自分達には、生み、育ててくれた両親が在り、そして兄弟が居るではないか。まして大切な子が居たとすれば、自分達夫婦のみの幸せ第一で良いのか。子はかすがいと言うのは封建主義だと笑って過ごせるか。人を悲しませれば、その悲しみよりも、もっと多くの悲しみと苦労が、自分自身の身に振り返ってくる。それが因果の法理だと仏教は説く。
人生には、我慢と堪忍が大切と仏法は説く。自由競争は必要であるが、その結果は、時としてゆきすぎて悪いことも在る。
人間が、貧富や、地位の差が出来てくるのは、自由と競争の社会では避けられない。だからといって、無条件で論じてゆけば、悪いことに変わってしまう。人間の能力には、長短、大小の差がある。その人々によって、根性も、努力も一様ではないから、出発点が平等であっても、その先にゆくことで、差が出来ることは当然、否、差の大小が出来ることこそ平等社会ではないのか。
自由でも、平等でも、日本人の戦後には新しい希望を与えてくれたことは確かである。だがそれ等の思想に対して、限度を厳しく教えて来なかった。否、教えて来たけれども、日本人の身に付いて居なかった。子供の時の「躾として身に付ける」ことを、家庭の仕事、親の責任として、行なって来なかったからではないか。
日本は狭い国土の中で、人口の増加による住宅不足によって、長年、親子二所帯家族、時には祖父母、両親、若夫婦と三所帯家族さえ珍しくなかった。そんな住生活には不自由が山積していた。それでもなお、人間として良かったことも多い。
苦労を重ねた親の努力と愛情、そして良き慣習が、おのずと次世代に引き継がれて、子供の魂として自然に備えさせた。まさに、親の背中が、子供の心の鏡であった。
戦後の豊かさは、自由が物心共に許される時代となった。核家族の出現である。
経済の発展成長は、住宅事情の変化を招き、新婚家庭では、まず、自分達の生活の城を築くことが、当然の夢である。清潔で近代的なキッチン。そして子供部屋まで用意する。その結果、両親や、祖父母と距離の遠い生活となる。
老夫婦も、時代の波と受け止めてそれを認め、むしろ子や孫の騒々しい生活から離れた自由な生活を満喫している。この時代の波の中で、誰が子や孫の教育や躾をするのか。
幼児の教育は誰がするのか。保育園、幼稚園、学校に任せて、自分たちは社会に出て稼ぐ。この慣習を非難するつもりはないが、家庭生活はどうなるのか。子供の教育は、他人任せの時代と化し、親の真の愛情や温かさや、肌と肌のふれあいが狭められ、親や先輩の長所を学ぶ手本が、苦労と共に消されてしまいつつある。
夜おそく電車に乗ると、意外なことに、いつも満席で、青年男女は、なぜこんな夜おそくまで外出するのか。車内では、例外なく携帯をヒネッテいる。友と話すより携帯が友である。若者にとっては、夜が憩いの時かもしれない。老人には、はかり知れない世代がおとずれている。
実は、「たまには本でも」と思いながら、3冊の本をネットで購入しました。その1冊は「ルポ 貧困大国 アメリカ」です。他の2冊もアメリカに関するもので日本語で書かれたものですが、まだまだ知らないことが山ほどあると思い買いました。貧困の本を知ったきっかけは、確かアメリカがイスラエルに援助を行っているであろうということで、その金額などを知りたかったのですが、Googleしているうちに行き着いたものでした。そして調べていくと、「やがて日本もアメリカのようになる。いやすでにそうなって来ている」ということを感じたのです。それで、やはりその本を読む必要があるのではないかと思いました。一般的にアメリカに関して書かれている本の多くは、商社の駐在員や評論家などといわれる上の層の人たちによって書かれたものでしょう。それは上辺のアメリカしか書かれていない。彼らは本当のアメリカを知らないからです。下層のアメリカこそが本当のアメリカです。貧困に悩む下層はおそらく50%を越えていると思います。そしてどんどん入ってくる不法移民たち、彼らも貧困、そして「アメリカの方が自国よりもマシ」ということで、ここで生活するのです。
最近、Buford Hwy.Farmers Marketには東欧系の食料品が並び始めました。ロシア語のような表記が目立ちます。旧ソ連の国からの移民が多いからでしょう。アメリカは世界中から人々を呼び寄せています。ここで立ち上がり、這い上がっていくのも人生でしょう。不法とか合法とかは彼らには関係ないでしょう。生きるのに必死だと思います。
話は横に逸れましたが、日本はさらにアメリカ化します、というか国際化していくのです。それが良い方向なのか、悪い方向なのかは別にして変わっていくのです。昨日のニュースに「タクシー運転手殺害、現金目当ての犯行か」というのがありました。運転席側と後部座席の間には仕切りがそろそろ必要になるでしょう。これも1つの例です。簡単に考えればタクシーの運転手は数万円の現金を持っているのですから、狙われて当たり前です。ただ、これまではそういう考え方はなかった、タブーでしたよね。これからは違ってくるのです。そのために本を読み知識を更新しないといけません。
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