買収されていたエスペランサ 9月20日(金)
Veinte de Septembre (Viernes)
たまに前にいた会社はどうなったのか気になるものです。昨日、検索していたら、5月に買収されていました。
神戸レザークロス㈱に10年いたのですが、この社名よりもエスペランサというブランド名を知っている人の方が多いと思います。
今年の5月にワールド(婦人服)の傘下に入っています。買収金額はわずかに6億4千万円。資産が82億円もある会社なのにこれかい?
靴の資材から始まり、製造と小売りをすべて備える会社です。創業者の斎藤章太郎さんは、岡山の笠岡の出で、一代で年商50億円の会社にしました。
この方が社長をしているときに、中途入社したのですが、京都の河原町の店でした。そこが三越などで店外催事をやっていて、派遣されたのが、私の運命を変えました。
貧しい時期で、出張すると手当がつく、食事代が出る、催事の売り上げが店の個人売り上げに加算される。1週間で3-4百万円は売っていたかと思います。
当時は、毎月、200万円を売れば千円の報奨金でした、そこから10万円ごとに千円加算されます。300万円なら1万1千円の報奨金です。500万円なら3万1千円です。枚方、北浜、高松の三越が主な会場でしたかね。
ここで実績を作ったことが社長に知られる機会にもなり、会社が香港に店を開けることで、2年目か3年目に手を上げ、海外赴任を経験しました。行く前には半年の英語研修もさせてくれました。そして赴任した香港ですが、東京の本部から商品が届くのですが、見当違いのものが送られてくる。その他いろいろ問題があり、クレームを毎日にように手紙で(当時はエアメールでした)本部に送っていたのですが、それを無視され、私は3カ月で「もう辞める」と断言したのです。
それで社長の章太郎さんが、私の送った手紙をすべて見てくれ、「社内にこうして問題意識を持っている人間がいることはありがたい」ということになり、「ではその業務を神戸に戻ってきてやりなさい」となったのです。
当時は神戸の三宮にも店があり、店長を社長の息子である伍一郎さんがやっていました、その店の主任になり、週に1回は香港向けの商品を買い付け、それを送る仕事をして、なおかつ店で働いていました。海外の方からはそれで喜ばれ、その後シンガポールにも店が開き、2回ほど出張で行ったかと思います。
その過程で、本部でゴタゴタがあり、息子の伍一郎さんが東京本部に行くことになり、私は若くして年商3億円の店の店長に抜擢されました。
ここで5年程度は店長と西日本のブロック長を兼ねた仕事をしていましたが、私はまだ20代の前半でしたが、他の店長は30歳を超えていました。
社長に気に入られていましたから、怖いものはなかったですね。本社に行くと、たまに社長室に入っていくこともありました。普通は行かないそうです。そこで雑誌プレジデントや日経ビジネスが置かれていて、経営者はそういうものを読んでいるのかと思ったりもしました。気に入られるといっても、実績あってのことです、当時はよく働いたものです。というか物を売ることが楽しかった時期です。
社長は常に孤独である。そう思ったのもこのころです。誰も近づかない、触らぬ神に祟りなし、では逆に近づいたらどうなるのか? 実に面白かったですね。社長には相談相手もいませんから、日常の出来事とか話すと喜ばれたものです。
そして札幌店が不振で、店長をやっていたのが資材の出で、元は丸紅にいたという異色のAさんでしたが、小売りの経験もないのに派遣されていたので、業績が下がっても当たり前でした。前の店長は腕利きでしたが、何かの事情で辞め、近くに自分の店を開けていました。その札幌店の立て直しに行ってくれと頼まれ、それを受けました。
都合、札幌店には18カ月いて、最初は苦労したものの、何とか再建を果たしたので、次はどこかと思えば、東京本部でした。いよいよ本丸です。
マーチャンダイザーを任されましたが、店を回ったり、商品開発をしたり、直接は数字と関係のない仕事でした、その中今度は六本木店が不振だというので、そこの再建に行かされるのです。2回目の再建です。
六本木店は特殊な店で、ロアビルの中にあり、ハイヒールを売る店で高級でした。店の名前もWatArunというタイの寺院から来ています。
不良在庫の山でしたが、これを荒療法でなくし、立て直しに成功しましたが、このころから会社の方向性が見えないようになり、このままエスペランサにいても、あまり意味がないと感じ、ある別業種の社長に誘われ、10年間で辞めたのです。
その後、伍一郎さんが急死し、後を継いだのがまだ20代の前半か後半だった伸介さんです。会社はその後、メンズをやり、アクセサリー小物に手を出し、バッグをやり、拡大して、ブーツがブームになった最盛期には110億円の年商でしたが、その後は失速し、この4年は赤字の連続で、売り上げも昨年が70億円まで落ちていました。
店もかなり縮小されていて、現在のエスペランサは36店舗しかありません。私がいたころは50を超えていましたからね。
時代の流れなのか、経営者のセンスなのか、伸介さんはおじいさん譲りのガンコな性格と行動力があり、お父さんの伍一郎さんよりもできていたという評判でしたが。
4年連続の赤字では、経営センスがないと言われても仕方ないでしょう。回りの取り巻きが、良い人材はどんどん去っていき、残ったのは社長のイエスマンだけになる。
この50-100億円程度の会社の場合、よくあることです。一族の支配ですから、上に上がっても役員止まり、社長になることはない。常にお仕えの身です。
ある酒蔵があり、そこも2代目か3代目が今、社長をやっていて、私はその次男とLINEするのですが、同じような状況です。そこは赤字ではありませんが、厳しいと言っています。良い人材はいましたが、「社長のお守りは疲れた」ということで退社しました。
日本にはこうした会社が実に多いと思います。会社はだれのもの、株主のもの、一族が株を握っていれば、それは一族のものでしょう。長男が社長になり、次男がいれば専務になる。そして彼らの息子たちは、関連会社の社長とかに自動的に収まるわけです。
その中に有能な人がいれば良いが、それを求めるのは厳しいものがあります。普通のサラリーマンからすれば、「アホなのに一族だから重役かい?」でしょうし、それで有能な人は去っていく。残ったのはどこにも行けない無能な人ばかり。それでは会社に未来はないでしょう。
創業者の章太郎さんは、そのあたりをよくわかっていて、取り巻きに優れ者の常務がいました、番頭さんですよ。そしてビジネスコンサルティングと組み、社内のセミナーとかも積極的に行い、会社が永続していくための幹部の育成を行っていました。私もそういうのに参加していましたから、今となればよく分かります、それでも人は去っていくのです。
大変、お世話になった会社ゆえ、少し寂しい思いです。これから黒字化に向け、不採算部門はどんどん切られていくのです。社長はすでに6月に交代、伸介さんは去っているか、取締役で残っているのかも不明ですが。普通なら4年連続赤字を出し、それを黒字にできなかったのですから、クビでしょう。
私が会社を去るときに切れ者の常務が誰かに言ったそうです。「ああ、これでまた商売人が去っていく」これは私にとって嬉しい言葉でしたが、会社にとっては日常茶飯事ながらも優秀な人材が育たないという中小企業の宿命のように思えます。
最高の天気、パティオの食事が最高でしょう。
昨日は、元エスペランサにいて、一緒にプロジェクトを組んだこともあるSさん、電話番号があるので、数年ぶりに電話しました。このことを知らなかったようです。もう、過去の話ですが、寂しいものがあります。皆さん、良い週末を!
たまに前にいた会社はどうなったのか気になるものです。昨日、検索していたら、5月に買収されていました。
神戸レザークロス㈱に10年いたのですが、この社名よりもエスペランサというブランド名を知っている人の方が多いと思います。
今年の5月にワールド(婦人服)の傘下に入っています。買収金額はわずかに6億4千万円。資産が82億円もある会社なのにこれかい?
靴の資材から始まり、製造と小売りをすべて備える会社です。創業者の斎藤章太郎さんは、岡山の笠岡の出で、一代で年商50億円の会社にしました。
この方が社長をしているときに、中途入社したのですが、京都の河原町の店でした。そこが三越などで店外催事をやっていて、派遣されたのが、私の運命を変えました。
貧しい時期で、出張すると手当がつく、食事代が出る、催事の売り上げが店の個人売り上げに加算される。1週間で3-4百万円は売っていたかと思います。
当時は、毎月、200万円を売れば千円の報奨金でした、そこから10万円ごとに千円加算されます。300万円なら1万1千円の報奨金です。500万円なら3万1千円です。枚方、北浜、高松の三越が主な会場でしたかね。
ここで実績を作ったことが社長に知られる機会にもなり、会社が香港に店を開けることで、2年目か3年目に手を上げ、海外赴任を経験しました。行く前には半年の英語研修もさせてくれました。そして赴任した香港ですが、東京の本部から商品が届くのですが、見当違いのものが送られてくる。その他いろいろ問題があり、クレームを毎日にように手紙で(当時はエアメールでした)本部に送っていたのですが、それを無視され、私は3カ月で「もう辞める」と断言したのです。
それで社長の章太郎さんが、私の送った手紙をすべて見てくれ、「社内にこうして問題意識を持っている人間がいることはありがたい」ということになり、「ではその業務を神戸に戻ってきてやりなさい」となったのです。
当時は神戸の三宮にも店があり、店長を社長の息子である伍一郎さんがやっていました、その店の主任になり、週に1回は香港向けの商品を買い付け、それを送る仕事をして、なおかつ店で働いていました。海外の方からはそれで喜ばれ、その後シンガポールにも店が開き、2回ほど出張で行ったかと思います。
その過程で、本部でゴタゴタがあり、息子の伍一郎さんが東京本部に行くことになり、私は若くして年商3億円の店の店長に抜擢されました。
ここで5年程度は店長と西日本のブロック長を兼ねた仕事をしていましたが、私はまだ20代の前半でしたが、他の店長は30歳を超えていました。
社長に気に入られていましたから、怖いものはなかったですね。本社に行くと、たまに社長室に入っていくこともありました。普通は行かないそうです。そこで雑誌プレジデントや日経ビジネスが置かれていて、経営者はそういうものを読んでいるのかと思ったりもしました。気に入られるといっても、実績あってのことです、当時はよく働いたものです。というか物を売ることが楽しかった時期です。
社長は常に孤独である。そう思ったのもこのころです。誰も近づかない、触らぬ神に祟りなし、では逆に近づいたらどうなるのか? 実に面白かったですね。社長には相談相手もいませんから、日常の出来事とか話すと喜ばれたものです。
そして札幌店が不振で、店長をやっていたのが資材の出で、元は丸紅にいたという異色のAさんでしたが、小売りの経験もないのに派遣されていたので、業績が下がっても当たり前でした。前の店長は腕利きでしたが、何かの事情で辞め、近くに自分の店を開けていました。その札幌店の立て直しに行ってくれと頼まれ、それを受けました。
都合、札幌店には18カ月いて、最初は苦労したものの、何とか再建を果たしたので、次はどこかと思えば、東京本部でした。いよいよ本丸です。
マーチャンダイザーを任されましたが、店を回ったり、商品開発をしたり、直接は数字と関係のない仕事でした、その中今度は六本木店が不振だというので、そこの再建に行かされるのです。2回目の再建です。
六本木店は特殊な店で、ロアビルの中にあり、ハイヒールを売る店で高級でした。店の名前もWatArunというタイの寺院から来ています。
不良在庫の山でしたが、これを荒療法でなくし、立て直しに成功しましたが、このころから会社の方向性が見えないようになり、このままエスペランサにいても、あまり意味がないと感じ、ある別業種の社長に誘われ、10年間で辞めたのです。
その後、伍一郎さんが急死し、後を継いだのがまだ20代の前半か後半だった伸介さんです。会社はその後、メンズをやり、アクセサリー小物に手を出し、バッグをやり、拡大して、ブーツがブームになった最盛期には110億円の年商でしたが、その後は失速し、この4年は赤字の連続で、売り上げも昨年が70億円まで落ちていました。
店もかなり縮小されていて、現在のエスペランサは36店舗しかありません。私がいたころは50を超えていましたからね。
時代の流れなのか、経営者のセンスなのか、伸介さんはおじいさん譲りのガンコな性格と行動力があり、お父さんの伍一郎さんよりもできていたという評判でしたが。
4年連続の赤字では、経営センスがないと言われても仕方ないでしょう。回りの取り巻きが、良い人材はどんどん去っていき、残ったのは社長のイエスマンだけになる。
この50-100億円程度の会社の場合、よくあることです。一族の支配ですから、上に上がっても役員止まり、社長になることはない。常にお仕えの身です。
ある酒蔵があり、そこも2代目か3代目が今、社長をやっていて、私はその次男とLINEするのですが、同じような状況です。そこは赤字ではありませんが、厳しいと言っています。良い人材はいましたが、「社長のお守りは疲れた」ということで退社しました。
日本にはこうした会社が実に多いと思います。会社はだれのもの、株主のもの、一族が株を握っていれば、それは一族のものでしょう。長男が社長になり、次男がいれば専務になる。そして彼らの息子たちは、関連会社の社長とかに自動的に収まるわけです。
その中に有能な人がいれば良いが、それを求めるのは厳しいものがあります。普通のサラリーマンからすれば、「アホなのに一族だから重役かい?」でしょうし、それで有能な人は去っていく。残ったのはどこにも行けない無能な人ばかり。それでは会社に未来はないでしょう。
創業者の章太郎さんは、そのあたりをよくわかっていて、取り巻きに優れ者の常務がいました、番頭さんですよ。そしてビジネスコンサルティングと組み、社内のセミナーとかも積極的に行い、会社が永続していくための幹部の育成を行っていました。私もそういうのに参加していましたから、今となればよく分かります、それでも人は去っていくのです。
大変、お世話になった会社ゆえ、少し寂しい思いです。これから黒字化に向け、不採算部門はどんどん切られていくのです。社長はすでに6月に交代、伸介さんは去っているか、取締役で残っているのかも不明ですが。普通なら4年連続赤字を出し、それを黒字にできなかったのですから、クビでしょう。
私が会社を去るときに切れ者の常務が誰かに言ったそうです。「ああ、これでまた商売人が去っていく」これは私にとって嬉しい言葉でしたが、会社にとっては日常茶飯事ながらも優秀な人材が育たないという中小企業の宿命のように思えます。
最高の天気、パティオの食事が最高でしょう。
昨日は、元エスペランサにいて、一緒にプロジェクトを組んだこともあるSさん、電話番号があるので、数年ぶりに電話しました。このことを知らなかったようです。もう、過去の話ですが、寂しいものがあります。皆さん、良い週末を!
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