猪瀬発言から、こんな記事まで到達。

 猪瀬都知事が「イスラムは、、、。」と発言し謝罪したのですが、五輪に絡んで東京五輪でいろいろあったことを知りました。 ニューズウィークなどからの抜粋です。

猪瀬都知事の発言が原因で、オリンピックの東京招致に影が差している。

 「イスラム国はけんかばかり」という侮蔑的表現が取り上げられることが多いようだが、その発言を弁解するときに「雑談のつもりだった」と言った、「イスラム圏初ってそんな意味あるのかなあ」という発言のほうが、筆者は気になる。なぜなら半世紀前に東京でオリンピックが行われたときの、最大のウリが「アジア初のオリンピック」だったからだ。
 そこで思い出したのが、1964年の東京オリンピックの際のゴタゴタである。

 問題が起きたのは、オリンピック開催まであと2年強となった1962年8月、インドネシアで開催されていたアジア競技大会でのこと。この大会に、イスラエルと台湾の参加がインドネシアによって拒否されたのである。インドネシアは、インドのネルー首相やエジプトのナセル大統領と並んで、1955年以降アジア、アフリカ諸国を席巻していた非同盟諸国運動の中核だった。当然、1956年の第二次アラブ・イスラエル戦争では、アラブ陣営を支持していた。宗教的にも、アラブ諸国とインドネシアの間には、「イスラーム教徒の国」という共通点がある。主催国インドネシアは、反イスラエル姿勢でアラブ諸国に連帯を示した。

 これが国際オリンピック委員会(IOC)の逆鱗に触れた。IOCは「政治とスポーツを分離すべしとの原則に反している」として、アジア競技大会を正式競技大会としては認めないとし、インドネシアをIOC会員停止処分とした。

 困ったのは、開催国日本である。アジア初の東京オリンピックに、アジアの大国インドネシアが参加しないのは困る。なにより第二次大戦期にインドネシアを占領していた日本が、インドネシアと平和条約を結んだのは、つい4年前のことだ。問題の舞台となったアジア競技大会は、その四年前に日本が開催国となっていて、オリンピックの東京招致のために大いに利用した大会でもある。

 大臣やIOC委員でもあった都知事が駆け回り、スカルノ大統領とIOC会長の仲介に奔走するなど、日本政府はぎりぎりまでインドネシア参加の道を模索した。今から振り返れば、驚くべき粘り腰外交である。だが、「イスラエルを拒否したせいでインドネシアがオリンピックから拒否されているなら、我々こそオリンピックを拒否すべき」とばかりに、アラブ諸国がこぞって不参加の姿勢を表明、参加国がどんどん減っていく。

 その後紆余曲折、二転三転し、インドネシア、IOC両者の歩み寄りが見られなかったのが、開催半年前、IOCが突然、折れた。インドネシアの資格停止を解いたのである。そのときにインドネシア代表が出した声明が、こうだ。「日本、メキシコ、アジア・アフリカ諸国の好意に報い、アジアで最初のオリンピックを成功させるためにインドネシアは参加する」(朝日新聞、1964年8月3日)。

 結果的には、インドネシアは開会式に参加したものの、実は翌日には選手団を引き上げざるを得なかった。IOCとの関係悪化に怒ったインドネシアが、63年に独自に「新興国競技大会」を立ち上げていたため、国際水連や陸連などが、そこに参加した選手はオリンピックに参加させない、としたためだ。

 当時の報道や資料を読むと、オリンピック成功のために日本政府がアジアと欧米中心の国際組織との間をなんとか取り持とうと、必死だった様子がよくわかる。「アジアの一員として」が、日本の国際社会進出の鍵だった。もし今回の騒動を超えて、東京がオリンピック開催地に選ばれたとしたら、50年前のスピリットをもって運営できるだろうか。


そして関連記事があります。
 
オリンピックと政治について、オリンピック東京大会までの込み入った、かつ深刻な混乱について振り返って見たいと思います。当時、私は参加国の国旗を準備する立場(組織委競技部式典課国旗担当専門職員)だったものですから、そのころからいつも、ニュースを聴くことと、内外の新聞を読むことを怠らず、関係の専門家や外務省と情報を密にするという「クセ」が続いているように思います。
では、1960年代の世界のスポーツ界の混乱についてです。
インドネシアのスカルノ大統領(1901~70、デヴィさんはその第3夫人)は、持ち前の雄弁とカリスマ性を発揮して、インドネシアの民族意識を鼓舞してこの国をまとめ上げ、その一方で、国際的にはユーゴのチトー、インドのネルー、中華人民共和国(中国)の周恩来、エジプトのナセルなどとともに「バンドン会議」(1955)を開催する等、世界を大いに揺り動かしました。「バンドン会議」には、アジアとアフリカの29ヶ国が参加しましたが、その多くが第二次世界大戦後に独立した国でした。会議では「平和五原則」を拡張した「平和十原則」が定められ、冷戦期にあって、後の非同盟諸国首脳会議を導きました。
この会議に、日本からは高崎達之助経済審議庁長官以下、十数名が参加しましたが、各国はいずれも元首、首相級が出席していましたので、アメリカに気兼ねした日本の態度は疑問視されたでしょうが、後に国連大使となった加瀬俊一外務相参与が、外務大臣代理として出席し、約10年後ですが、私はご本人から、「一行はインドネシアに特別に歓迎され、あの会議でアジア・アフリカ諸国と日本とのご縁が一挙に深まったんだよ」と伺ったことがあります。インドネシアはスカルノ以下、オランダからの独立に際して、日本の果たした役割を大きく評価し、感謝していたのです。
ところが、このように世界の「第3勢力」を結集しつつあったスカルが、オリンピックとは別の世界レベルの競技大会を開催したことが、このあと、東京オリンピックまでの世界のスポーツ界を大混乱に陥れたきっかけだったのです。
時代は冷戦の真っ最中、1962年10月15日から13日間続いた「キューバ危機」は米ソ両国の緊張が核戦争寸前まで達した危機的な状況のことです。私が在学する早稲田大学ではこの間、事実上、どの講義も休講で、通学してもそこここに仲間と集まっては、ささやかな情報を交換し合い、危機に怯えていました。
スカルノは1963年11月10日から13日まで、ジャカルタで、51カ国から2,700人が参加した第1回新興国競技大会(GANEFO)を開催したのです。GANEFOは政治とスポーツが密接な関係であることを自らの憲章ではっきり表明し、非同盟諸国、とりわけ社会主義を掲げる国や、社会主義に共感するスポーツ団体や競技者を世界から強引に集めたのです。
このGANEFO開催のきっかけは、1962年11月10日から13日までジャカルタで開催されたアジア競技大会にイスラエルと中華民国が招待されなかったことが始まりです。スカルノはアラブ・イスラム諸国への宗教的親近感から反イスラエルの立場を鮮明にし、また、かねてより中華人民共和国への親近感を明らかにし、多くの中国人がインドネシアでは優遇され、経済の主要な部分に大きく関わっていました。
スカルノは1960年「指導される民主主義」と称して、「ナサコム体制」(NASAKOM、インドネシア語でNASは国民党や民族主義的な組織、Aは宗教=イスラム勢力、KOMは共産党)の推進を唱え、三者のバランスに立って政権を維持・強化し、63年には終身大統領兼首相となりました。
しかし、その政治や外交政策は次第に社会主義に傾斜し、反米色を強め、親中国路線を走りました。
そして、翌年11月22日(日本時間では翌日早暁)、テキサス州ダラスでケネディ大統領が暗殺されたのです。
このあとも、スカルノに世界は振り回されました。インドネシアが承認していない隣国マレーシアが国連安保理非常任理事国に選ばれたことを理由に、65年1月に、国連始まって以来の加盟国の国連脱退という騒ぎに及びました。今日まで、東西ドイツのように国家が合併して1議席が消滅するという例は、他にも、タンガニーカとザンジバル、エジプトとシリア、南北イエメンのようにありますが、脱退というのは国連67年の歴史でこのときのインドネシア以外には例がありません。
結局、こうした「左傾化」や独裁がナスチオン、スハルト両将軍等、軍部の反感を買い、1965年の「9.30事件」(左派系軍人らによるクーデターとそれを企図するナスチオン、スハルトらによる政権奪取)となって、スカルノは潰え、30万人ともいわれる使者を出して、インドネシア共産党は壊滅したのです。67年、スカルノは全権を剥奪され、インドネシアは中国と断交し、1990年までの23年間の長きにわたり、両国は正式な外交関係を断ったままでした。
また、インドネシアはスハルト体制となり、66年8月、マレーシアと国交を回復し、9月には国連に復帰しました。
そして、1967年8月、インドネシアは、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイとともに、東南アジア諸国連合(ASEAN)を結成し、ジャカルタにその本部が置かれました。た。この国際機構は、当初は反共軍事同盟の性格が強かったのですが、71年に中立地帯宣言を出し、次第に加盟国を拡大し、東南アジアの全ての国が加盟する地域協力機構として今日に至っています。
しかし、インドネシアにとってスカルノはなんと言っても「建国の父」、事件後は不遇ではありましたが、いまでも「ブン・カルノ」(カルノ兄さん)と慕われ、「国父」として遇されました。現在も10万ルピア紙幣に肖像が描かれています。
1963年4月、IOCはインドネシアの国際オリンピック委員会(IOC)加盟国としての資格を停止し、これにより、インドネシアはオリンピックに出場することが出来なくなったのです。これに対し、インドネシアに共感する、同じイスラムのアラブ諸国12ヶ国は東京オリンピックをボイコットしかねない態度にまで出、スポーツ界は完全に分解する直前までになりました。
1965年の「9.30事件」で、インドネシアと中国は断交し、67年にエジプトのカイロで開催が計画されていた第2回GANEFO大会は中止となりました。
しかし、これとはさらに別に、「アジア新興国競技大会」(Asian GANEFO、本部=北京)が主催する国際的な競技大会がシアヌーク殿下全盛期の1966年11月にカンボジアの首都プノンペンで開催されました。この大会には日本を含む17ヶ国が参加しています。これに参加した選手・役員は、その後、国内の国民体育大会への参加資格も剥奪されました。政治とスポーツが複雑に絡み合った混乱期だったといえましょう。
U字型に作られた開会式と陸上競技などを行う、プノンペンのメイン会場は、いまもかなり傷んではいますが、なんともおしゃれなデザインです。69年3月、私は大森実国際問題研究所の主催する「太平洋大学」東南アジア版の担当役員として事前にその会場を下調べし、そこで、サッカーの交流試合を行い、選手村に一行約600人を宿泊させてもらいました。大森所長は惜しくも昨年亡くなりましたが、シアヌーク殿下とはかねてとても親しく、この事業は成功し、今でもその時の仲間たちとのお付き合いが続いています。
そして、IOCがこうしたスポーツ大会を公認しなかったため、北朝鮮は中国などとともに東京オリンピックをボイコットしたのでした。
より正確に言うなら国際陸上連と国際水連以外の国際競技団体(IF)は、64年8月までにGANEFOに出場した選手への資格停止処分の解除を行ったのですが、インドネシアはこれでは満足せず、資格停止処分を受けている選手を含めた選手団を結成しました。また、北朝鮮は国際陸連が資格停止処分の決定を変えない限り、東京オリンピックをボイコットすると表明したのです。
インドネシアの代表選手団は9月28日、北朝鮮の選手団は10月4日にそれぞれ来日しました。ところが、両国の選手団には、参加資格のない選手も含まれていたのです。これらの選手については代々木の選手村へ入村することが許されないのです。そこで組織委員会(OOC)は無資格の選手のためにホテルを用意したのですが、両国選手団は分離宿泊を是とせず、独自に宿泊先を準備し、OOCは中に入っていろいろと折衝したのですが、両国の主張通りにはならず、北朝鮮選手団は全員早々に引き揚げ、インドネシアも開会式当日に離日したのでした。
これにより、10月10日の東京オリンピック開会式は、94の国と地域からの選手団による行進となったのでした。

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