スマホが人間をだめにする??
一時は食事中に漫画を読む子供が多かったですね。それがいつの間にか任天堂のDSになり。、そして今では携帯電話(スマホ)に様変わりしています。任天堂が赤字になるのも理解できますかね。それだけ、人間に影響を及ぼしているんでしょう。以下を読んでみてください。
複数のサイトからの抜粋です。
スマートフォンを使ってはいけない場面でも、つい手を伸ばしてしまう「スマホ依存症」が増加しているようだ。日米の主要経済紙が奇しくも同じ時期に、この問題を取り上げるなど、今、両国ビジネス・パーソンの間で共通の関心事となっている。
■"When Facebook, Twitter and Instagram Crash the Party"7月6日付け米Wall Street Journal(WSJ)電子版
■「スマホ依存にご用心 SNS・音楽・ゲーム・・・もう手放せない」
7月9日付け日本経済新聞夕刊
スマートフォンなどパーソナルなモバイル端末が、家族や対人関係にもたらす様々な軋轢や緊張を紹介している。この種のことは以前から度々報じられてきたが、最近フェイスブックやツィッターなどソーシャル・メディアの利用が一般化し、特にスマートフォンでこれらを使う人が急増してきたことから、改めて問題視されたのだろう。いずれの記事も、身近な実例をもとに、その病理を分析している。
まず日経の記事では「2人のときも夫はスマホでネットを見ている。会話をする気がないのかと口論になることもしばしば」(28歳、女性会社員)、「夫がフェイスブックのとりこ。家族で出かけても読み手に『いいね!』ボタンを押してもらえそうな材料を探しては撮影、ネット掲載と、全く落着きがない。小学生の娘に『パパと出かけてもつまんない』と言われる始末」(44歳、主婦)などの事例を紹介。
続けて、専門家の意見として「コメントを書かなくちゃいけないという義務感、その背後には孤独感がある」と分析し、最後に「便利な道具のつもりで使っていたら、いつの間にやら道具の奴隷に。そうならないように、スマホとは良いスタンスを保ちたい」と結んでいる。
一方、WSJの記事では、友達との会食やパーティなど、もっぱら外部の人間関係について、スマホ利用の問題点を指摘している。たとえば誰かと食事中に電話やメールが届いた瞬間、目の前にいる人を無視してスマートフォンにかじりつく人が少なくないのは、日本もアメリカも同じ。同記事は「このようなテーブル・マナーは過去も、現在も、そして今後とも許されるものではない」と厳しく断じた上で、こうした問題には米国人自身も何らかの対処策を講じ始めている、と紹介している。
たとえば39歳の某男性は、友達数人と会食するときには、全員が自分のスマートフォンを一旦懐から取り出して、それらをテーブルの上に寄せ集める。そして食事中、最初にスマートフォンに手を伸ばした人が、その場の勘定を持つことにしたという。
あるいは某女性大学教授は、自分の娘(11歳)の誕生パーティを催したところ、娘とその友達が、その場にいる子と話すよりも、その場にいない子とSMSに熱中するのを目撃。これに失望した教授は、次回のパーティからは自宅の玄関にバスケットを置き、訪れた子供たち全員のスマートフォンを没収。彼女の家では、その場にいる子供達とだけ交流させるようにした。
が、話はそこで終わらず、この教授自身が今の話をバスケットの写真付きでインスタグラム、ツィッター、フェイスブックに投稿し、260回もシェアされたとWSJは紹介している。
日米の両記事とも、スマホ利用におけるマナーやエチケットの重要性を訴えている点は共通するが、WSJはその一方で「スマートフォンやソーシャル・メディアがこれだけ日常生活に浸透した今となっては、人付き合いもそれに適応させる必要がある」とも指摘。たとえば「会食の途中で持ち上がった話題をスマートフォンで調べ、それによって話が一層弾むようであれば、それはあまり問題視すべきではない」と提案している。
インターネット時代、スマートフォン時代になって、我々はいつの間にか、以前にはなかったような無礼ではしたない振る舞いをするようになった。
その1つがいわゆる「ショールーミング」、小売店をショールームのように利用することだ。店では商品を見るだけで、実際の購入は自宅のパソコンなどからショッピングサイトにアクセスして行う。
もちろん、これは今に始まったことではないのだが、問題はそのやりかたが昨今どんどん露骨になってきたということだ。
アマゾン・ドットコムがインターネットで本を売り始めた当初から、本の中身は店頭の立ち読みで確かめ、注文は家に帰ってアマゾンでする、という人はいた。だがその頃は、「本屋さんに悪いな」という気持ちが少しは働いていた。それでもアマゾンで買ったのは、安いアマゾン価格を前にして背に腹は代えられなかったからだ。
ところが今は、この「クリック購入」を本屋の中でもスマホを使ってやるようになった。はたして、「できるから」といってやってもいいことか。傍若無人のふるまいと思われるのだが、どうだろう。
こうした行為を決定的に後押ししたのが、アマゾンが出しているアプリ「プライスチェック」である。カメラ付きスマートフォンにダウンロードする。店に気に入った製品があれば、そのバーコードを写真に撮るだけですぐにアマゾンのサイトへ飛び、その商品のページが表示される。たいてい、アマゾンの方が安いので、その場ですぐにクリックして購入という流れになるわけだ。
この手のアプリを出しているのはアマゾンだけではなく、他にも数々ある。小売店側から見れば実に迷惑で失礼な話だ。選りすぐりの品揃えが自慢のセレクトショップがあるとしよう。客はあれこれ試着したり店員に物を尋ねたりした挙げ句、スマートフォンを出してシャッターを押してクリック。そのまま何も買わずに帰ってしまう、ということも日常茶飯事になっている。
このトレンドが最高潮に達したのは、昨年の年末商戦だったかもしれない。どの店でも、客の手にはスマートフォン。以前なら商品名を記憶だけして自宅でネット検索するなど、「隠れてやる」という意識があったが、今はそれもない。価格の力学の前にはわずかばかりの礼節も吹き飛んでしまった感じである。
もう1つ、これもかなり失礼ではないかと思うのが、インターネットを利用したカメラのモニターだ。カメラが捉える画像を、遠い場所からインターネット経由でモニターするもので、よく子供がいる家庭で使われる。多くはベビーシッター監視用に使われる。ベビーシッターと赤ん坊がいる部屋にカメラを設置し、会社務めをしている母親などがオフィスから時々チェックするためのものだ。なかには照明器具や置物にカメラが隠されているものもある。
心配で仕方がない母親の気持ちはわかる。ベビーシッターによる虐待事件などが起こる中では、監視したくもなるだろう。だがこれもベビーシッターの立場に立って考えると、とてもイヤな話である。もちろん彼女たちは、そんなモニターがあることなど知らされていない。監視されて当たり前と見なされることを、彼女たちはどう感じるだろう。隠れてモニターすることは、ひょっとすると人権にも関わる問題かもしれない。
またレストランへのオンライン予約も一般に失礼と思われていた時期が、ほんの短期間だがあったように思う。それまでは電話で予約を入れて、自分の声と話し方で「私はこういう者ですが」とまずこちらの名刺を差し出すようなところがあった。そこから伝わる人柄のようなものを相手も了解して、予約を受け付けるという手順を踏んでいた。だが、オンラインではそうしたやりとりがない。
今では、オンライン予約サイトなしの生活など考えられないくらい便利で身近な存在になっている。だが、その便利さを悪用して予約のドタキャンを繰り返す例がアメリカでは増えている。アメリカ人には以前から、何カ所ものレストランを同じ時間に予約しておいて、その時の気分で実際に行く場所を決めるという非常識な人がよくいるのだが、これがオンライン予約になってひどくなっている。相手と話さず、クリックひとつでできるので、どんなギリギリのドタキャンも心理的な抵抗がない。
なかには、キャンセルの連絡さえせずにただ現れない、という人も多い。レストラン側も、防衛のために10分遅れただけでテーブルを他の客に譲ってしまうことも多い。とてもドライな関係だ。
ドライで便利であることにも価値はある。ただ、おいしいものをこれから誰かと一緒に食べに行く楽しいイベントの序奏の部分が、まるで電気のスイッチのようにそっけない。便利さを差し置いて悠長なことなど言っていられないのかもしれないが、サンフランシスコでも頑固で優秀なレストランの中には、今でもオンライン予約システムを使っていないところがいくつかある。これはさすがだ。
もちろん、その他にも失礼なことは数えきれないほどある。講演会の最中にラップトップやタブレットでメールを見る聴衆。誰かと食事をしている最中にスマートフォンを操作するなどもはや当たり前だ。フェイスブックで友達の友達がわかってしまうのも、以前ならば「相手の交友関係を詮索する」という失礼な行為にあたったはずなのだが、今は「ネットワーク」ということで許容されている。
テクノロジーも進化するし、それによってわれわれの認識も変化する。ショールーミングによって、それに対抗した新しい小売店のビジネスモデルも出始めている。オンラインでは売ってないものを揃えるというのも、そのひとつだ。
しかし、テクノロジーに身を任せていると「だって、できるんだもの」ということが、限りなく出てくる。それにしたがって、失礼な人とそうでない人の見分けもつきにくくなっている。そんな環境では「これはいいけれども、こちらは止めておこう」といった判断は、もう自分の価値観を確かめながら自分でやるしかない。
買い物するのもネット、人と付き合うのもネットの時代になってきました。正しく向き合わないと、大きな間違いを起こしそうな時代ですね。
クリックするだけで、すべてがこと足りるわけですから、人間の気持ちなんか伝わらなくなりますね。文明の利器に支配されないように気をつけないといけない、またこうした利器を上手く利用しないといけない、決して使われないことですかね。’
複数のサイトからの抜粋です。
スマートフォンを使ってはいけない場面でも、つい手を伸ばしてしまう「スマホ依存症」が増加しているようだ。日米の主要経済紙が奇しくも同じ時期に、この問題を取り上げるなど、今、両国ビジネス・パーソンの間で共通の関心事となっている。
■"When Facebook, Twitter and Instagram Crash the Party"7月6日付け米Wall Street Journal(WSJ)電子版
■「スマホ依存にご用心 SNS・音楽・ゲーム・・・もう手放せない」
7月9日付け日本経済新聞夕刊
スマートフォンなどパーソナルなモバイル端末が、家族や対人関係にもたらす様々な軋轢や緊張を紹介している。この種のことは以前から度々報じられてきたが、最近フェイスブックやツィッターなどソーシャル・メディアの利用が一般化し、特にスマートフォンでこれらを使う人が急増してきたことから、改めて問題視されたのだろう。いずれの記事も、身近な実例をもとに、その病理を分析している。
まず日経の記事では「2人のときも夫はスマホでネットを見ている。会話をする気がないのかと口論になることもしばしば」(28歳、女性会社員)、「夫がフェイスブックのとりこ。家族で出かけても読み手に『いいね!』ボタンを押してもらえそうな材料を探しては撮影、ネット掲載と、全く落着きがない。小学生の娘に『パパと出かけてもつまんない』と言われる始末」(44歳、主婦)などの事例を紹介。
続けて、専門家の意見として「コメントを書かなくちゃいけないという義務感、その背後には孤独感がある」と分析し、最後に「便利な道具のつもりで使っていたら、いつの間にやら道具の奴隷に。そうならないように、スマホとは良いスタンスを保ちたい」と結んでいる。
一方、WSJの記事では、友達との会食やパーティなど、もっぱら外部の人間関係について、スマホ利用の問題点を指摘している。たとえば誰かと食事中に電話やメールが届いた瞬間、目の前にいる人を無視してスマートフォンにかじりつく人が少なくないのは、日本もアメリカも同じ。同記事は「このようなテーブル・マナーは過去も、現在も、そして今後とも許されるものではない」と厳しく断じた上で、こうした問題には米国人自身も何らかの対処策を講じ始めている、と紹介している。
たとえば39歳の某男性は、友達数人と会食するときには、全員が自分のスマートフォンを一旦懐から取り出して、それらをテーブルの上に寄せ集める。そして食事中、最初にスマートフォンに手を伸ばした人が、その場の勘定を持つことにしたという。
あるいは某女性大学教授は、自分の娘(11歳)の誕生パーティを催したところ、娘とその友達が、その場にいる子と話すよりも、その場にいない子とSMSに熱中するのを目撃。これに失望した教授は、次回のパーティからは自宅の玄関にバスケットを置き、訪れた子供たち全員のスマートフォンを没収。彼女の家では、その場にいる子供達とだけ交流させるようにした。
が、話はそこで終わらず、この教授自身が今の話をバスケットの写真付きでインスタグラム、ツィッター、フェイスブックに投稿し、260回もシェアされたとWSJは紹介している。
日米の両記事とも、スマホ利用におけるマナーやエチケットの重要性を訴えている点は共通するが、WSJはその一方で「スマートフォンやソーシャル・メディアがこれだけ日常生活に浸透した今となっては、人付き合いもそれに適応させる必要がある」とも指摘。たとえば「会食の途中で持ち上がった話題をスマートフォンで調べ、それによって話が一層弾むようであれば、それはあまり問題視すべきではない」と提案している。
インターネット時代、スマートフォン時代になって、我々はいつの間にか、以前にはなかったような無礼ではしたない振る舞いをするようになった。
その1つがいわゆる「ショールーミング」、小売店をショールームのように利用することだ。店では商品を見るだけで、実際の購入は自宅のパソコンなどからショッピングサイトにアクセスして行う。
もちろん、これは今に始まったことではないのだが、問題はそのやりかたが昨今どんどん露骨になってきたということだ。
アマゾン・ドットコムがインターネットで本を売り始めた当初から、本の中身は店頭の立ち読みで確かめ、注文は家に帰ってアマゾンでする、という人はいた。だがその頃は、「本屋さんに悪いな」という気持ちが少しは働いていた。それでもアマゾンで買ったのは、安いアマゾン価格を前にして背に腹は代えられなかったからだ。
ところが今は、この「クリック購入」を本屋の中でもスマホを使ってやるようになった。はたして、「できるから」といってやってもいいことか。傍若無人のふるまいと思われるのだが、どうだろう。
こうした行為を決定的に後押ししたのが、アマゾンが出しているアプリ「プライスチェック」である。カメラ付きスマートフォンにダウンロードする。店に気に入った製品があれば、そのバーコードを写真に撮るだけですぐにアマゾンのサイトへ飛び、その商品のページが表示される。たいてい、アマゾンの方が安いので、その場ですぐにクリックして購入という流れになるわけだ。
この手のアプリを出しているのはアマゾンだけではなく、他にも数々ある。小売店側から見れば実に迷惑で失礼な話だ。選りすぐりの品揃えが自慢のセレクトショップがあるとしよう。客はあれこれ試着したり店員に物を尋ねたりした挙げ句、スマートフォンを出してシャッターを押してクリック。そのまま何も買わずに帰ってしまう、ということも日常茶飯事になっている。
このトレンドが最高潮に達したのは、昨年の年末商戦だったかもしれない。どの店でも、客の手にはスマートフォン。以前なら商品名を記憶だけして自宅でネット検索するなど、「隠れてやる」という意識があったが、今はそれもない。価格の力学の前にはわずかばかりの礼節も吹き飛んでしまった感じである。
もう1つ、これもかなり失礼ではないかと思うのが、インターネットを利用したカメラのモニターだ。カメラが捉える画像を、遠い場所からインターネット経由でモニターするもので、よく子供がいる家庭で使われる。多くはベビーシッター監視用に使われる。ベビーシッターと赤ん坊がいる部屋にカメラを設置し、会社務めをしている母親などがオフィスから時々チェックするためのものだ。なかには照明器具や置物にカメラが隠されているものもある。
心配で仕方がない母親の気持ちはわかる。ベビーシッターによる虐待事件などが起こる中では、監視したくもなるだろう。だがこれもベビーシッターの立場に立って考えると、とてもイヤな話である。もちろん彼女たちは、そんなモニターがあることなど知らされていない。監視されて当たり前と見なされることを、彼女たちはどう感じるだろう。隠れてモニターすることは、ひょっとすると人権にも関わる問題かもしれない。
またレストランへのオンライン予約も一般に失礼と思われていた時期が、ほんの短期間だがあったように思う。それまでは電話で予約を入れて、自分の声と話し方で「私はこういう者ですが」とまずこちらの名刺を差し出すようなところがあった。そこから伝わる人柄のようなものを相手も了解して、予約を受け付けるという手順を踏んでいた。だが、オンラインではそうしたやりとりがない。
今では、オンライン予約サイトなしの生活など考えられないくらい便利で身近な存在になっている。だが、その便利さを悪用して予約のドタキャンを繰り返す例がアメリカでは増えている。アメリカ人には以前から、何カ所ものレストランを同じ時間に予約しておいて、その時の気分で実際に行く場所を決めるという非常識な人がよくいるのだが、これがオンライン予約になってひどくなっている。相手と話さず、クリックひとつでできるので、どんなギリギリのドタキャンも心理的な抵抗がない。
なかには、キャンセルの連絡さえせずにただ現れない、という人も多い。レストラン側も、防衛のために10分遅れただけでテーブルを他の客に譲ってしまうことも多い。とてもドライな関係だ。
ドライで便利であることにも価値はある。ただ、おいしいものをこれから誰かと一緒に食べに行く楽しいイベントの序奏の部分が、まるで電気のスイッチのようにそっけない。便利さを差し置いて悠長なことなど言っていられないのかもしれないが、サンフランシスコでも頑固で優秀なレストランの中には、今でもオンライン予約システムを使っていないところがいくつかある。これはさすがだ。
もちろん、その他にも失礼なことは数えきれないほどある。講演会の最中にラップトップやタブレットでメールを見る聴衆。誰かと食事をしている最中にスマートフォンを操作するなどもはや当たり前だ。フェイスブックで友達の友達がわかってしまうのも、以前ならば「相手の交友関係を詮索する」という失礼な行為にあたったはずなのだが、今は「ネットワーク」ということで許容されている。
テクノロジーも進化するし、それによってわれわれの認識も変化する。ショールーミングによって、それに対抗した新しい小売店のビジネスモデルも出始めている。オンラインでは売ってないものを揃えるというのも、そのひとつだ。
しかし、テクノロジーに身を任せていると「だって、できるんだもの」ということが、限りなく出てくる。それにしたがって、失礼な人とそうでない人の見分けもつきにくくなっている。そんな環境では「これはいいけれども、こちらは止めておこう」といった判断は、もう自分の価値観を確かめながら自分でやるしかない。
買い物するのもネット、人と付き合うのもネットの時代になってきました。正しく向き合わないと、大きな間違いを起こしそうな時代ですね。
クリックするだけで、すべてがこと足りるわけですから、人間の気持ちなんか伝わらなくなりますね。文明の利器に支配されないように気をつけないといけない、またこうした利器を上手く利用しないといけない、決して使われないことですかね。’
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