週末往来! 由紀さおりから学ぶもの
こんなニュースを読みましてね。
大みそかの第63回NHK紅白歌合戦に、由紀さおり(63)が出場することが内定。還暦を超えて、世界的ヒットを成し遂げたことが高く評価された。1992年に「赤とんぼ」などの童謡を歌って紅組トリを務めて以来、20年ぶり13回目の単独出場。姉の安田祥子(71)との出場を含めると通算23回目で、今年のトリの有力候補の一人になりそうだ。由紀が紅白に帰ってくる。
今年の音楽界で大きな話題になったのが、由紀の世界での活躍だ。米国の人気楽団「ピンク・マルティーニ」とのアルバム「1969」が30カ国でヒット。国内では41年ぶりにオリコンチャートのトップ10入りを果たした。
NHK関係者によると(1)ニッポンの歌謡曲の魅力を世界に広めた功績(2)還暦を過ぎての世界挑戦が国民に勇気を与えた――などが選考の理由。「現在まさに出場者を選考している最中だが、今年の由紀さんの活躍は目を見張るものがあり、異論もなく最も早く内定した出場者の一人です」と明かした。
じゃあ、どうして由紀さおりは蘇ったのか?と疑問を持つでしょう?それが以下なんですね。
ダイヤモンドのオンラインから取ったものです。
由紀さおりが米国のジャズオーケストラ“ピンク・マルティーニ”とコラボレーションしたアルバム『1969』は昨年、世界20ヵ国で発売され大ヒットとなった。iTunesの全米ジャズチャート1位、米国ビルボード誌のジャズチャート5位等々、大ブレイクした。昨年10月17日にはロンドンの『ロイヤル・アルバート・ホール』で開かれたピンク・マルティーニのコンサートにも出演。英国のBBCが中継した映像は、日本のテレビでもニュースとして伝えられた。時ならぬ「由紀さおり」の大ブレイクに、多くの日本人は驚き、そして心を躍らせた。
私もその1人だったが、同時に、抑えがたい疑問がわき上がった。アルバム『1969』は1曲を除き、すべて日本語で歌われている。ピンク・マルティーニがジャズオーケストラだから『1969』は当然のように“ジャズ”に分類されているが、1969年当時の日本の音楽風景を知っている人間が聴けば、誰が聴いてもそのアルバムは“歌謡曲”である。ピンク・マルティーニ風にアレンジされてはいるが、由紀さんが歌っているのは、150万枚の大ヒットとなった自身のデビュー曲『夜明けのスキャット』や石田あゆみさんの『ブルーライトヨコハマ』、黛ジュンさんの『夕月』等々、1969年当時にヒットしていた歌謡曲が大半だ。
つまり「由紀さおり」が「由紀さおり」のまま、突如として世界でブレイクしたのである。
なぜそんなことができたのだろうか。
一般的な解説によれば、ポートランドの古いレコードショップで『夜明けのスキャット』をジャケ買い(ジャケットだけを見て衝動的に買うこと)したピンク・マルティーニのリーダー、トーマス・ローダーデールに見出され、「由紀さおり」は一気にグローバルな存在へと駆け上がったということになっている。シンデレラストーリーだ。
そこで思う。そんなに調子よく物事が進むことがあるのだろうか。
シュンペーターのイノベーションを地でいく「由紀さおり」の凄み
「由紀さおり」という歌手を取材対象として調べてみると『1969』成功の背景には、自力で谷底から這い上がってきた「由紀さおり」の凄みが見えてきた。確かにシンデレラストーリーに一脈通じる「運」の良さはある。だが「運」を逃さず掴みとったのは「由紀さおり」自身であった。
しかもアルバム『1969』に至るまでの43年の歌手人生において、3度の成功と2度の深い谷底を経験したが、這い上がるたびに「由紀さおり」は過去とは全く違う新しいビジネスモデルを創出してきた。シュンペーターのイノベーションを地でいく姿だ。
じつは先日、楽天の三木谷浩司社長の話をうかがう機会があった。私の公式ホームページ上で展開している『経営者の輪』のなかで、三木谷さんがシュンペーターについて言及している。
「最近、僕はシュンペーターを研究し直していて、自分なりに『イノベーションとは何か』を再定義しようと思っています。改めて(彼の本を)読み直すと、今インターネットの世界で実際に起こっているさまざまな現象は、シュンペーター的なフレームワークに当てはめると、ほとんど説明できてしまうのです。僕が、なんとなくこうだと感じていた将来観や世界観、その中でビジネスを進めていけば、ある程度うまくいくだろうと思っていたことが、すべてここに書いてあったという感じです。起業15年目にして、シュンペーターがすべてを語り尽くしていたと気付きました。リベラル・アーツ(一般教養)が、小手先の技術やインターネットのトレンドに対する若干の理解よりも重要だということを思い出したところが、今までとは違う部分かもしれません」
激変の連続性のなかにあるITの世界も、シュンペーターが定義づけた「イノベーション」の枠組のなかで説明がつくという。その三木谷さんが企業15年で辿りついた結論は、小手先の技術やネット社会のトレンドにあくせくすることではなく、リベラルアーツ(一般教養)が重要なのだと話していた。
由紀さおりさんにとって『1969』の成功は、3番目の山になる。
最初の山は『夜明けのスキャット』の大ヒットで始まった1960年代末から1970年末までの10年間だ。いまでこそ独立系の芸能事務所など珍しくもないが、当時は大手事務所が芸能界をすべて牛耳る時代。母親が社長を務める弱小事務所に所属していた「由紀さおり」は賞レースには無縁だったが、その歌唱力で1973年には見事『恋文』で日本レコード大賞・最優秀歌唱賞を受賞した。
歌手にとって人気の最大のバロメーターはNHKの紅白歌合戦である。紅白から声がかかるうちが、文字通り「花」だった。由紀さおりは『夜明けのスキャット』から10年連続で紅白出場を果たしたものの、そこで終わり。人気商売は好きか、嫌いかだ。蝶よ花よと持ち上げられた時代が終わってしまえば、大概の人間はそっぽを向く。極端な栄光と極端な挫折。ビジネスの世界も本質的には変わらないが、人気商売はその落差が極度にデフォルメされる。
「紅白歌合戦から声がかからなくなった時、一体何をどうすればいいのか、わからなくなってしまった」
スターの座から転落した時の茫然自失が忘れられないという。人気商売は好き、嫌いの世界。売れなくなったら相手にされなくなっても仕方がない。しかし「おはようございます」の挨拶すら突然無視し始める業界関係者の存在には苦しんだ。
1986年由紀さおり、安田祥子姉妹の童謡コンサート「あの時、この歌」がスタート。母の勧めで始まった童謡・唱歌のコンサートは、圧倒的な歌唱力が創り出した「日本の歌」の新しい世界が一躍世間の注目となり、翌年の1987年、9年ぶりに紅白出場。それ以降、9年連続で由紀さおりさんは安田祥子さんとともに紅白に出演している。ピアノ1台と姉妹の声だけのコンサートだが、シャビーにはしたくないと意匠を凝らし、コストもかけた。かつて童謡・唱歌で青春時代、子ども時代を送った人々からの熱い支持をうけ、姉妹のアルバムも売れた。
だがこの成功もじつは深い挫折から始まっていた。
童謡・唱歌のアルバムを出版してくれるレコード会社がなかったのだ。「教育用なら出してもいいが…」と言われる始末。自ら第2の歌手人生をかけた童謡・唱歌は音楽業界においてまるで存在感のないジャンルであることに愕然とした。そこから由紀さおり・安田祥子姉妹は、苦労しながらクラシックコンサート並みの充実したコンサートへと仕上げて行った。表現は悪いが「声が出にくくなってきた歌手が女・子どものために歌う童謡・唱歌」というマイナーイメージから、日本の歌を再評価させる新しいジャンルを確立するまでになった。新たなビジネスモデルの創出だ。
ただし、成功は常に期限付きである。イノベーションは新たな価値を創造するが、新たなに創出された価値にも寿命がある。2000年代以降、童謡・コンサートだけでは由紀さおりさんの活動を支えてくれているスタッフの生活を維持していくことがままならなくなってきた。
そこで由紀さおりさんは新たなイノベーションへの挑戦を決めた。
「歌謡曲でもう一度ヒット曲をだそう」
長年、由紀さおりさんを支えてくれた同世代のスタッフに歌謡曲への再チャレンジを相談すると「本気でやるなら若いスタッフと組むべきだ」という返事が返ってきた。イノベーションのコアは新しい市場、新しい顧客を創造することだ。「由紀さおり」の凄さは、歌手人生の節目、節目でそれを実現してきたことである。
「新人歌手と同じように何でもするから一緒にやってくれないか」
これは、と思った若いスタッフ集団に由紀さおりさんは頭を下げて協力を仰いだ。それが2008年。ピンク・マルティーとのコラボレーションアルバム『1969』が世界的なヒットになる3年前だった。
「でもすぐには何の化学反応も起こらなかった」と由紀さおりさんはが自らが言う通り、歌謡曲への再チャレンジもまた挫折の日々から始まった。その後、ピンク・マルティーニが由紀さおりさんの曲『タヤタン』をカバーしていたことを、若いスタッフがYouTubeで発見。それがきっかけとなり『1969』の世界的ヒットへと結実していくのだが、じつに3年間もの長きにわたり、由紀さおりさんにとっては「もやもやとした気分」が延々と続いた。
それでも由紀さおりさんは、ピンク・マルティーニのリーダー、トーマス・ローダーデールに自ら粘り強く働きかけ続けた。トーマスが住むオレゴン州ポートランド在住の知人の日本人を通じることで、直接交渉の道を開こうとしたこともあった。
イノベーションの原点は「山高ければ谷深し」に
この秋、ピンク・マルティーニが来日。ロイヤル・アルバート・ホールの再現が日本国内で実現する。これまでとはまったく異なる音楽シーンを私たちは観ることができる。「由紀さおり」のまた新たなイノベーションを私たちは目撃することになる。
山高ければ谷深し。
深い谷底から幾度も這い上がってきた由紀さおりの心を支えてきたのは、亡くなった母の言葉だったという。
「一度山の頂上に登れたとしても、そこからキリマンジャロに飛んで行けるわけではない。次の山を目指すなら、一度下りて、自分らしい登山口を、人が登らない登山口を見つけなければ、貴女自身が登ったことにはならない」
「由紀さおり」というイノベーションの原点がここにある。
http://www.youtube.com/watch?v=XghLcWD4VoI ブルーライトヨコハマ
http://www.youtube.com/watch?v=FpACTIQL304 パフ
http://www.youtube.com/watch?v=gP-AiVJeEVk 真夜中のボサノバ
http://www.youtube.com/watch?v=VVsa0r_2j6g&feature=related そして夜明けのスキャット
何か、考えさせられるものがありませんか? やっぱ、人生諦めちゃいかんですたい!
踏まれても、落とされても這い上がる、そんな勇気が欲しいものです。歯を食いしばり、いつかは「やったらんけー」ですかね。なんでもすぐに諦める人が多すぎる!
大みそかの第63回NHK紅白歌合戦に、由紀さおり(63)が出場することが内定。還暦を超えて、世界的ヒットを成し遂げたことが高く評価された。1992年に「赤とんぼ」などの童謡を歌って紅組トリを務めて以来、20年ぶり13回目の単独出場。姉の安田祥子(71)との出場を含めると通算23回目で、今年のトリの有力候補の一人になりそうだ。由紀が紅白に帰ってくる。
今年の音楽界で大きな話題になったのが、由紀の世界での活躍だ。米国の人気楽団「ピンク・マルティーニ」とのアルバム「1969」が30カ国でヒット。国内では41年ぶりにオリコンチャートのトップ10入りを果たした。
NHK関係者によると(1)ニッポンの歌謡曲の魅力を世界に広めた功績(2)還暦を過ぎての世界挑戦が国民に勇気を与えた――などが選考の理由。「現在まさに出場者を選考している最中だが、今年の由紀さんの活躍は目を見張るものがあり、異論もなく最も早く内定した出場者の一人です」と明かした。
じゃあ、どうして由紀さおりは蘇ったのか?と疑問を持つでしょう?それが以下なんですね。
ダイヤモンドのオンラインから取ったものです。
由紀さおりが米国のジャズオーケストラ“ピンク・マルティーニ”とコラボレーションしたアルバム『1969』は昨年、世界20ヵ国で発売され大ヒットとなった。iTunesの全米ジャズチャート1位、米国ビルボード誌のジャズチャート5位等々、大ブレイクした。昨年10月17日にはロンドンの『ロイヤル・アルバート・ホール』で開かれたピンク・マルティーニのコンサートにも出演。英国のBBCが中継した映像は、日本のテレビでもニュースとして伝えられた。時ならぬ「由紀さおり」の大ブレイクに、多くの日本人は驚き、そして心を躍らせた。
私もその1人だったが、同時に、抑えがたい疑問がわき上がった。アルバム『1969』は1曲を除き、すべて日本語で歌われている。ピンク・マルティーニがジャズオーケストラだから『1969』は当然のように“ジャズ”に分類されているが、1969年当時の日本の音楽風景を知っている人間が聴けば、誰が聴いてもそのアルバムは“歌謡曲”である。ピンク・マルティーニ風にアレンジされてはいるが、由紀さんが歌っているのは、150万枚の大ヒットとなった自身のデビュー曲『夜明けのスキャット』や石田あゆみさんの『ブルーライトヨコハマ』、黛ジュンさんの『夕月』等々、1969年当時にヒットしていた歌謡曲が大半だ。
つまり「由紀さおり」が「由紀さおり」のまま、突如として世界でブレイクしたのである。
なぜそんなことができたのだろうか。
一般的な解説によれば、ポートランドの古いレコードショップで『夜明けのスキャット』をジャケ買い(ジャケットだけを見て衝動的に買うこと)したピンク・マルティーニのリーダー、トーマス・ローダーデールに見出され、「由紀さおり」は一気にグローバルな存在へと駆け上がったということになっている。シンデレラストーリーだ。
そこで思う。そんなに調子よく物事が進むことがあるのだろうか。
シュンペーターのイノベーションを地でいく「由紀さおり」の凄み
「由紀さおり」という歌手を取材対象として調べてみると『1969』成功の背景には、自力で谷底から這い上がってきた「由紀さおり」の凄みが見えてきた。確かにシンデレラストーリーに一脈通じる「運」の良さはある。だが「運」を逃さず掴みとったのは「由紀さおり」自身であった。
しかもアルバム『1969』に至るまでの43年の歌手人生において、3度の成功と2度の深い谷底を経験したが、這い上がるたびに「由紀さおり」は過去とは全く違う新しいビジネスモデルを創出してきた。シュンペーターのイノベーションを地でいく姿だ。
じつは先日、楽天の三木谷浩司社長の話をうかがう機会があった。私の公式ホームページ上で展開している『経営者の輪』のなかで、三木谷さんがシュンペーターについて言及している。
「最近、僕はシュンペーターを研究し直していて、自分なりに『イノベーションとは何か』を再定義しようと思っています。改めて(彼の本を)読み直すと、今インターネットの世界で実際に起こっているさまざまな現象は、シュンペーター的なフレームワークに当てはめると、ほとんど説明できてしまうのです。僕が、なんとなくこうだと感じていた将来観や世界観、その中でビジネスを進めていけば、ある程度うまくいくだろうと思っていたことが、すべてここに書いてあったという感じです。起業15年目にして、シュンペーターがすべてを語り尽くしていたと気付きました。リベラル・アーツ(一般教養)が、小手先の技術やインターネットのトレンドに対する若干の理解よりも重要だということを思い出したところが、今までとは違う部分かもしれません」
激変の連続性のなかにあるITの世界も、シュンペーターが定義づけた「イノベーション」の枠組のなかで説明がつくという。その三木谷さんが企業15年で辿りついた結論は、小手先の技術やネット社会のトレンドにあくせくすることではなく、リベラルアーツ(一般教養)が重要なのだと話していた。
深い挫折から復活を遂げた「3度のイノベーション」とは
三木谷さんとの対談した直後、由紀さおりさんのインタビューが決まった。由紀さんは自らの歌手人生の中で「イノベーション」などという意識をしたことはなかったに違いないし、これまでの軌跡をビジネスモデルという発想で捉えられたこともなかったと思う。だが歌手「由紀さおり」はイノベーションを繰り返しながら復活を遂げてきたことを、私は確信した。由紀さおりさんにとって『1969』の成功は、3番目の山になる。
最初の山は『夜明けのスキャット』の大ヒットで始まった1960年代末から1970年末までの10年間だ。いまでこそ独立系の芸能事務所など珍しくもないが、当時は大手事務所が芸能界をすべて牛耳る時代。母親が社長を務める弱小事務所に所属していた「由紀さおり」は賞レースには無縁だったが、その歌唱力で1973年には見事『恋文』で日本レコード大賞・最優秀歌唱賞を受賞した。
歌手にとって人気の最大のバロメーターはNHKの紅白歌合戦である。紅白から声がかかるうちが、文字通り「花」だった。由紀さおりは『夜明けのスキャット』から10年連続で紅白出場を果たしたものの、そこで終わり。人気商売は好きか、嫌いかだ。蝶よ花よと持ち上げられた時代が終わってしまえば、大概の人間はそっぽを向く。極端な栄光と極端な挫折。ビジネスの世界も本質的には変わらないが、人気商売はその落差が極度にデフォルメされる。
「紅白歌合戦から声がかからなくなった時、一体何をどうすればいいのか、わからなくなってしまった」
スターの座から転落した時の茫然自失が忘れられないという。人気商売は好き、嫌いの世界。売れなくなったら相手にされなくなっても仕方がない。しかし「おはようございます」の挨拶すら突然無視し始める業界関係者の存在には苦しんだ。
1986年由紀さおり、安田祥子姉妹の童謡コンサート「あの時、この歌」がスタート。母の勧めで始まった童謡・唱歌のコンサートは、圧倒的な歌唱力が創り出した「日本の歌」の新しい世界が一躍世間の注目となり、翌年の1987年、9年ぶりに紅白出場。それ以降、9年連続で由紀さおりさんは安田祥子さんとともに紅白に出演している。ピアノ1台と姉妹の声だけのコンサートだが、シャビーにはしたくないと意匠を凝らし、コストもかけた。かつて童謡・唱歌で青春時代、子ども時代を送った人々からの熱い支持をうけ、姉妹のアルバムも売れた。
だがこの成功もじつは深い挫折から始まっていた。
童謡・唱歌のアルバムを出版してくれるレコード会社がなかったのだ。「教育用なら出してもいいが…」と言われる始末。自ら第2の歌手人生をかけた童謡・唱歌は音楽業界においてまるで存在感のないジャンルであることに愕然とした。そこから由紀さおり・安田祥子姉妹は、苦労しながらクラシックコンサート並みの充実したコンサートへと仕上げて行った。表現は悪いが「声が出にくくなってきた歌手が女・子どものために歌う童謡・唱歌」というマイナーイメージから、日本の歌を再評価させる新しいジャンルを確立するまでになった。新たなビジネスモデルの創出だ。
ただし、成功は常に期限付きである。イノベーションは新たな価値を創造するが、新たなに創出された価値にも寿命がある。2000年代以降、童謡・コンサートだけでは由紀さおりさんの活動を支えてくれているスタッフの生活を維持していくことがままならなくなってきた。
そこで由紀さおりさんは新たなイノベーションへの挑戦を決めた。
「歌謡曲でもう一度ヒット曲をだそう」
長年、由紀さおりさんを支えてくれた同世代のスタッフに歌謡曲への再チャレンジを相談すると「本気でやるなら若いスタッフと組むべきだ」という返事が返ってきた。イノベーションのコアは新しい市場、新しい顧客を創造することだ。「由紀さおり」の凄さは、歌手人生の節目、節目でそれを実現してきたことである。
「新人歌手と同じように何でもするから一緒にやってくれないか」
これは、と思った若いスタッフ集団に由紀さおりさんは頭を下げて協力を仰いだ。それが2008年。ピンク・マルティーとのコラボレーションアルバム『1969』が世界的なヒットになる3年前だった。
「でもすぐには何の化学反応も起こらなかった」と由紀さおりさんはが自らが言う通り、歌謡曲への再チャレンジもまた挫折の日々から始まった。その後、ピンク・マルティーニが由紀さおりさんの曲『タヤタン』をカバーしていたことを、若いスタッフがYouTubeで発見。それがきっかけとなり『1969』の世界的ヒットへと結実していくのだが、じつに3年間もの長きにわたり、由紀さおりさんにとっては「もやもやとした気分」が延々と続いた。
それでも由紀さおりさんは、ピンク・マルティーニのリーダー、トーマス・ローダーデールに自ら粘り強く働きかけ続けた。トーマスが住むオレゴン州ポートランド在住の知人の日本人を通じることで、直接交渉の道を開こうとしたこともあった。
イノベーションの原点は「山高ければ谷深し」に
この秋、ピンク・マルティーニが来日。ロイヤル・アルバート・ホールの再現が日本国内で実現する。これまでとはまったく異なる音楽シーンを私たちは観ることができる。「由紀さおり」のまた新たなイノベーションを私たちは目撃することになる。
山高ければ谷深し。
深い谷底から幾度も這い上がってきた由紀さおりの心を支えてきたのは、亡くなった母の言葉だったという。
「一度山の頂上に登れたとしても、そこからキリマンジャロに飛んで行けるわけではない。次の山を目指すなら、一度下りて、自分らしい登山口を、人が登らない登山口を見つけなければ、貴女自身が登ったことにはならない」
「由紀さおり」というイノベーションの原点がここにある。
http://www.youtube.com/watch?v=XghLcWD4VoI ブルーライトヨコハマ
http://www.youtube.com/watch?v=FpACTIQL304 パフ
http://www.youtube.com/watch?v=gP-AiVJeEVk 真夜中のボサノバ
http://www.youtube.com/watch?v=VVsa0r_2j6g&feature=related そして夜明けのスキャット
何か、考えさせられるものがありませんか? やっぱ、人生諦めちゃいかんですたい!
踏まれても、落とされても這い上がる、そんな勇気が欲しいものです。歯を食いしばり、いつかは「やったらんけー」ですかね。なんでもすぐに諦める人が多すぎる!
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